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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

五輪ムラ

 オリンピックをめぐるゴタゴタを目の当たりにして、開いた口がふさがりません。

 もめ事にかかわるオリンピック・スポーツの業界関係者、有識者、政治家の発言を耳にすると、内輪の常識と世間の常識との埋めようのないギャップを感じます。つまり、「五輪ムラ」「スポーツムラ」(選手村のことではない)があるようです。

 マスコミは競技スポーツの「見応え」と「感動」を消費コンテンツとして垂れ流し、これを取り巻く巨大な利権に巣食う閉鎖的な「五輪ムラ」を、政産官とスポーツ関係者(スポーツ・ライター、ジャーナリスト、アスリート、スポーツ科学研究者、コーチングの専門家など)が作ってきたのでしょう。

 しかし、Covid-19禍の下で闘っている医療従事者や、失業や廃業に追い込まれた人たちの立場からすれば、今日の事態は憤りを通り越して、もはや開催自体がどうでもいいことになってしまったのではないでしょうか。

 今回のゴタゴタの焦点の一つに「女性差別」の問題がありました。オリンピック関係者のこの問題点への対応の鈍さもさることながら、問題の範囲を「女性差別」に限定するような業界関係者のコメントが目立つことにもいささか違和感を抱きます。

 オリンピック憲章は根本原則として、「友情、連帯、フェアプレーの精神とともに相互理解が求められ」、「オリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない」と謳っています。

 また、パラリンピックは、「多様性を認め、誰もが個性や能力を発揮し活躍できる公正な機会が与えられている場です。すなわち、共生社会を具現化するための重要なヒントが詰まっている大会です」(https://www.jsad.or.jp/paralympic/what/index.html)とあります。

 このようにみてくると、オリンピックとパラリンピックはダイバーシティやソーシャル・インクルージョンの実現を目標の一つに据えていると言うことができるのです。

 そこで、「女性差別」の発言は、あらゆる種類の差別と社会的排除に通底している点を問題視しなければならないのです。しかし、このような問題意識が、「五輪ムラ」の人たちにあったとはとても思えません。

 さらに、競争主義と商業主義にまみれた昨今のオリパラが、オリンピック憲章やパラリンピックの意義にあるダイバーシティやソーシャル・インクルージョンの実現にそもそも通じているのかどうか、この点がすでに根本から怪しいのではありませんか。

 今年度に私が指導してきた卒業研究論文の中に、競技スポーツ主体のパラリンピックは障害者スポーツ一般の普及向上に必ずしも貢献していないことを明らかにした労作がありました。

 文科省は2017年策定の第2期スポーツ基本計画において障害者スポーツの実施割合の目標値を40%に設定しています。しかし、笹川スポーツ財団の調査によると、2018年における成年障害者のスポーツ実施率は、20.8%にとどまっています。

 障害のある人たちの生涯スポーツの普及は、身心の状態と社会的交流の質的向上、つまりQOLの向上につながります。しかし、パラリンピックによって競技スポーツのレベルの高度化が進めば進むほど、「自分にはこのような事はできない」とスポーツへの諦めに追いやってしまう現実があるのです。

 神戸大学の小笠原博毅さんが指摘するように、近代スポーツが優生思想によって「人間の身体を規律化してきた成れの果てに」、メダル獲得のための勝敗ゲームである「昨今の五輪があるとすれば」(https://webronza.asahi.com/national/articles/2020041600009.html)、競技スポーツ主体のオリンピックとパラリンピックに障害のある人たちが、よそよそしさや反感を感じるのは当然です。

 パラリンピックの競技種目に適合的な障害の状態像の人たちと、そうではない人たちとの間に深い溝を作り、分断を強めている経緯はないのでしょうか。実際、以前に車いすバスケットボールの研究をした私のゼミ生が、選手から「俺たちは障害者じゃないんだよ」と繰り返し聞いた言葉の意味をはかりかねて相談に来たことがありました。

 このような選手の言葉には恐らく多義的な意味が含まれていると思います。が、この言葉の響きの中に、全身性の障害のある人たちと自分たちを「差別化」する傾きがあると感じるのは、はたして私の無理解なのでしょうか。

 Covid-19によって延期を余儀なくされたオリンピックについて、すでにIOCはCovid-19後を見据えた検討に入っていると報じられています。先の小笠原さんの指摘によると、オリンピック憲章の根本原則に回帰しようというムーヴメントだそうです。

 こんな回帰は、ソーシャルワークの世界で行き詰りに直面するたびに「リッチモンドに帰れ」だとか「バイスティックの7原則に立ち返れ」と言ってきた歴史と同じように、ほとんど無意味です。「回帰」するポーズが、本質的問題を隠すイチジクの葉に過ぎないからです。

 今回のゴタゴタの中で見せつけられたIOCの、風見鶏のようなご都合主義的態度を前にすると、今日の「五輪ムラ」は国際的な組織であることが分かります。すると、巨大な利権に寄生するIOCやJOCは一度、解体的に出直す以外に再生の見通しは立ちません。これまでのオリンピック・ムーブメントの単純な延長線上に未来があるとは、まったく考えることができません。

東京2020記念のキーホルダー

 さて、ひょっとすると「幻の東京2020」になるかも知れないと思い、記念のキーホルダーを買い求めておきました。2020年は、Covid-19を契機にさまざまなことが新たなステージに向かう画期となるようです。

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