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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。
さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

ショービジネスとしてのパラリンピック

 先日の朝日新聞に「パラと『頑張る』と自己責任論‐機会奪われた障害者の過酷な現実」と題する寄稿記事が掲載されました。パラリンピックのあり方に重要な一石を投じています(https://digital.asahi.com/articles/DA3S15023182.html?iref=mor_articlelink01、または8月27日朝刊)。

 寄稿者は、前回のブログで取り上げた『こんな夜更けにバナナかよ』(2013年、文春文庫)の著者である渡辺一史さんです。

 パラリンピックについて、障害当事者の中で、肯定的な意見がある一方で、冷やかに不審の念を抱く向きが根強くあるのは紛れもない事実です。

 このような問題を、渡辺さん自身がパラ・アスリートとの対談や取材を通じて実感されたところから掘り下げ、競技スポーツで勝ち抜くことを目指して「頑張る」障害のある人の姿をテコに、自立的に「頑張ることのできない人」は「応援しない」という「自己責任論」に立脚した社会と制度を正当化することに通じているのではないかと、渡辺さんは問題提起しています。

 その象徴は、東京都が2018年にJR東京駅構内に掲示したポスターのフレーズです。そこには「障がいは言い訳に過ぎない。負けたら自分が弱いだけ」とあり、「障害のためにできないことがあれば、自分が悪いことになるのか」との批判が殺到し、撤去されることになりました。

 このフレーズは、もともとはあるパラ・バドミントン・アスリートの次のような発言だったと言われています。「健常の大会に出ているときは、障がいがあってもできるんだという気持ちもあれば、負けたら“障がいがあるから仕方ない”と言い訳している自分がありました。でもパラバドでは言い訳ができないんです。シンプルに勝ち負け。負けたら自分が弱いだけ」。

 パラリンピックでは、競技種目ごとに障害の種類と程度によるクラス分けが行われ、「公平に」競い合うためのグループを設定します。だから、パラの試合で負けたら「自分が弱いだけ」という当たり前の自覚をこのアスリートは吐露しただけなのです。

 このような元々の意味が、パラを通じて障害者を感動ポルノに仕立て上げようとするポスター制作の中で「自己責任論」の方向に歪められ、暴走気味の独り歩きになりました。

 このフレーズが日本のシンボルの一つである東京駅のポスターに使われるほど、障害者問題の現実に無神経で粗暴な大会運営があるにも拘らず、「共生社会の実現を目指す」理念を掲げるというのは欺瞞も甚だしい。

 パラリンピックの素性は「もう一つのオリンピック」ですから、オリンピックにぶら下がったショービジネスの一面があることは言うまでもありません。パラ競技のスポーツに適合的な障害の状態像である一握りの人が、勝ち負けにこだわってメダルを獲りに行くところをショーとするビジネスです。

 パラをショービジネスとして発展させようとするならオリンピックにすがるほかない。そこで、パラリンピックに大した用もないオリンピック組の親分さんを、Covid-19の感染爆発で災害時医療に突入している日本に招待し、「オリンピックあってのパラリンピックだから理解して欲しい」などと「配下の舎弟」のようなことを言うのです。

「共生社会の実現」などという普遍的な価値にまで風呂敷を広げて、障害当事者からさえも疑問視されている現実をIPCやJPCはまず正視すべきです。俗物で拝金主義者の「バッハ親分」の顔を立てることを優先するのであれば、「共生社会」云々の看板は降ろすべきです。

 共生社会の実現に必要不可欠な条件は、老若男女や障害の状態像の如何に拘わらず、すべての人に例外なく、「支配‐服従」関係を強いられることなく「自律性」が確保されていることにあります。

 自力ではほとんど何もなしえない全身性の不自由や知的機能の困難があって、周囲の他者や制度ケアサービスに全面的に依存しなければならない生活条件下でも、その依存が他者の意思への従属に転化することなく、自律を基盤とする幸福追求を享受できるところに共生社会の真髄があります。

 ICPとJCPにこのような共生社会に係わる本質的な理解があるというなら、Covid-19禍の下でヨーロッパやアメリカの一部で、障害を理由とする命の淘汰に向けた選別が実行されている事実に抗議の声明を出すべきでしょう。

 実は、今回のパラには私の友人であるアスリートがある競技に出場していて、内心ではとても応援しています。でもそれは、たとえば私の娘が地域のソフトボールの大会でレギュラー選手として活躍し、勝ち進んで欲しいという気持ちと何も変わることはありません。

 ただ私は、スポーツの競技会を楽しみたいだけです。このありふれたエンターテイメントに、「共生社会の実現を目指して」「勇気」「強い意志」「インスピレーション」「公平」などという高邁な理念を豆狸の何かのように安っぽく広げて押しつけられても、私はどこにも共生社会に通じる要素を感じません。

 その上、パラリンピックが障害者スポーツを包括している訳でもないのです。




 知的障害のある人のスポーツ組織には、スペシャルオリンピックがあります。「知的障害のある人に様々なスポーツトレーニングとその成果の発表の場である競技会を、年間を通じて提供している国際的なスポーツ組織」です。

 この組織が掲げる5つの理念は、「アスリートの健康・体力増進」「スポーツ技術の向上・競技経験」「地域社会との交流」「自立への意識と自信」「包み込む社会」とあり、勝ち負けだけにこだわることのない障害者スポーツの考え方が適切に表明されています。

 また、国際ろう者スポーツ委員会は、1989年の国際パララリンピック委員会の発足当時にはパラに加盟していましたが、95年に脱退しています。

 手話通訳者の派遣経費負担をめぐるパラ組織委員会とデフ委員会の考え方のすれ違いや、障害の種別・程度によるクラス分けについて、肢体不自由のないろう者がコミットしづらい点もありますが、何よりも1924年のデフリンピック・パリ大会から開催してきた独自の歴史を持つ競技会がある点に、パラ脱退の最大の理由がありそうです。

 たとえば、デフ・バレーボールの競技は、一見すると、バレーボール一般との違いは気づきにくいかも知れません。ろう者は動作性に何も困難はないからです。しかし、競技中の激しいボールのやり取りの中で、音声言語による情報交換が瞬時に可能な健聴者と、手話をコミュニケーションに用いるろう者は、競技の成立条件がいささか異なります。

 デフ・バレーボールなどのデフ・スポーツは、手話を言語とする独自の文化を発展させてきたろうの人たちの誇りの一環であり、単純にパラに加わればいいという性格のものではないと思います。

 「2020+1」は、欺瞞に満ちた商業主義オリンピックとそれに追随する報道のあり方が問われました。それと同様に、今回のパラリンピックは、「共生社会の実現」の看板を露払いに、オリンビックにぶら下がって障害者の消費文化的価値を高めようとするショービジネス化の問題を明らかにしています。商業五輪からの訣別を含む抜本的見直しが必要です。

 東京2020オリパラのスポンサーやパートナーとなっている企業が、オリンピックとパラリンピックのそれぞれの選手への支援にどのような差別化をしているのかを報じるマスコミは皆無です。パラの現役選手から伺うオリとの差別化には、容認すべからざる実態があるというのに報道されることはまったくありません。それは、これらの企業がマスコミに広告収入をもたらすパトロンだからです。

2019年の台風で浸水被害を受けた特別養護老人ホーム

 今年は、西日本を中心に豪雨被害が頻繁に発生しています、画像は、2019年の台風19号による川の氾濫で浸水被害を受けて現在は使われていない特別養護老人ホームの現在の様子です。

 特養や障害者支援施設は、本来なら、福祉避難所の機能を併せもつ役割を果たすことができるように設置されることが、あらゆる意味で合理的です。施設利用者だけでなく、地域の広範囲な高齢者や障害のある人にとっての重要な社会資源ともなるからです。

 昨今の水害では、避難所の不足と狭隘性の問題が深刻になっています。避難所を小中学校や公民館に限定せず、社会福祉施設も活用できるようにすることは、パラリンピックで騒ぐことよりよほど有効な共生社会の実現に資することではありませんか。「安心・安全な」高齢者施設や障害者施設を福祉避難所にも活用できるよう、どうして建設されてこないのかは不思議でなりません。

 この画像を使って、「『縦割り行政の弊害』は言い訳に過ぎない。地域住民の共有する福祉避難所ができなければ共生社会がほど遠いだけ。」をフレーズにしたポスターを東京駅と羽田空港に掲示したらどうでしょうか。