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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

こんな夜更けにバナナかよ

 映画『こんな夜更けにバナナかよ』(監督/前田哲、主演/大泉洋)を観ました。公開からすでに2年半余り経っていますが、改めて観る機会を持ちました。

 この映画は、筋ジストロフィーで全介助の必要な鹿野靖明(1959‐2002)さんの実話を元に描かれています。筋ジスに係わる医学・看護学・介護学の知見にそくした演技の水準は高く、今日の障害のある人の支援と制度のあり方をめぐる多様な論点がこの映画のストーリーに編み込まれています。

 主人公の鹿野は、筋ジスの症状が進んだ状態で、自分の生活と人生に関するさまざまなことを自己決定することはできますが、その実現にはたくさんの人の手を借りることが必要不可欠です。

 映画の冒頭シーンです。

 自分の手元の砂時計でカップ麺の出来上がりを待って、出来上がった尻からフーフーと熱を冷まして食べさせてもらう、食事の合間には「水ちょうだい」、背中を「もうちょっと下」とか言いながらかいてもらう、入浴介助の最中に介助者に向かって「立派なおっぱいしている」と言う、買い物の依頼にはエロ本が含まれいるは、ドムドムバーカーを買ってきたボラの介助者に対しては「今日はモスバーガーって言ったじゃないか」と文句を言う。

 そして、北大医学部生のボランティア(三浦春馬)である彼氏のことが気になってやってきただけの美咲(高畑充希)を気に入ってしまって、いささか強引に介助ボランティアに引き入れようと、午前2時頃に「バナナ食べたい」と言い出して買いに行かせます。

 一見、介助ボラに対するわがまま言いたい放題のようですが、入院生活を振り切って地域での自立生活を切り拓いてきた鹿野には、自分らしさを貫くための信念があります。全介助の障害のある人にとっての自己決定(意思決定)と介助の権利性を鹿野は端的に表明します。

 「誰かの助けを借りないとできないことだらけ。思い切って人の助けを借りる勇気を持つ」

 「俺がわがままに振舞うのは、他人に迷惑をかけたくないからって、縮こまっている若者に、生きるってのは迷惑をかけあうことなんだと伝えたいから」

 「ここ自分ち(家)だよ、自分ちで遠慮する人いる? それじゃ病院と変わらない」

 この鹿野の主張に反発を覚えて離反していくボラもいれば、協力しようとするボラの広がりもあることの両面が描かれ、24時間介助のシフトを組み立てて埋めていく「綱渡り」のような作業の場面も出てくるなど、障害のある人を単純な感動ポルノに仕立て上げる映画ではありません。

 特に感心した点は、この映画が障害のある人と性の問題を適切に取り上げている点です。

 すべてを介助者に依存しなければならない障害のある人は、プライヴァシーを常に他者と共有しながら生き続けなければなりません。そこで、性愛とケアの領域である親密圏を形成し充実させる〈障害者‐介助者〉関係の課題をこの映画は真正面から描いています。

 鹿野に気に入られた美咲は反発し、鹿野のことを「何様のつもりだ」とボラから抜け出します。その晩は、三浦春馬演じるボラの田中が夜の泊りの介助者で、鹿野はアダルト・ビデオをボラと一緒に観ていても、くすぶった自分の気持ちは晴れません。

 そこで、鹿野は田中にラブレターを口述筆記させて美咲に届けさせます。田中と美咲の関係は危機を迎え、美咲は田中に不信を抱き、鹿野の自由な生き方に魅かれていきますから、ある種の三角関係が醸成されてしまいます。

 しかし、鹿野の病状の悪化と人工呼吸器の装着をめぐる問題への対応から、事態は新たな展開を見せます。

 田中は医大生ですから、気管切開による人工呼吸器の装着は、鹿野の自由な自己決定を周囲に伝える唯一の手段である「声を失う」ことになるとして反対し、異なるアプローチを目指します。

 しかし、結局、鹿野は気管切開による人工呼吸器の装着となります。ここで、美咲が人工呼吸器を装着してでも発語ができるようになった事例を見つけ出して来て、鹿野との試行錯誤を重ね、最終的には鹿野は以前のように話すことができる状態になるのです。

 このように田中と美咲は鹿野とその人工呼吸器の装着の問題を第3項として共有することによって、二人の関係性を取り戻していきます。

 最後に、この映画がわが国の法制度に巣食う最大の課題をあけすけに指摘している点について取り上げておきましょう。親が障害のある子どものことを心配する気持ちを抱くことをテコにして、障害者の世話を家族になすりつけてきた問題です。

 鹿野は母親が近づくことを頑なに拒んでいます。母親は、息子の拒否的な姿勢を前に、「仕方ないんだわ、私が悪いんです。あんな体に産んだもの」と自責の念に佇んでいます。

 一方、鹿野は「俺が本気で親に甘えたら、親は介助以外に何もできなくなるでしょ。親には親の人生を歩んで欲しいっていうかさ、子どもの病気は親に原因があるって言って、謝られるのも辛いしね」と理解し、「それにさ、障害者の世話は家族がするのが当たり前っていうこの国の常識に、ささやかながら俺も抵抗してるのよ」と言います。

 このように、この映画は、ホームヘルプサービスと親密圏、ボランティアのあり方、障害のある人の自己決定・意思決定の権利性、障害のある人とその家族の問題、養護・介護の負担を家族に負わせようとするわが国の制度的・構造的問題など、とても考えさせられる内容がてんこ盛りです。

 主人公を演じた大泉洋さんは、映画の撮影を終えて次のように語っています。

 「子どもにどういう教育をしますかって言われたら、まず最初に浮かぶ言葉っていうのは、
 『人に迷惑をかけない』って、『何してもいいけど、人に迷惑だけはかけんじゃない』みたいなね。」

 「この作品に係わって、痛烈に感じたのは、人に迷惑かけるってことが、『そんなにダメなことなのかな』っていう、自分勝手な迷惑はダメかも知れないけれど、やっぱり自分にできないことは人に頼るしかないんだよねって。」

 「それに対して、頼られた時に、ちゃんと応えられる自分でいたいなと思って、大きな考え方のシフトチェンジだったような気がしますね。頼られたら応えたいし、もっと気楽に人に何かをお願いできる社会の方が、ずっと、いい社会なんだなあなんて思うようになりましたね」

 北大医学部生の田中を演じた三浦春馬さんは、この映画の公開から一年半後に自死されました。私には、この映画の田中役を、命を削るように演じておられたような印象が残ります。三浦さんのご冥福をお祈り申し上げます。

 この映画の公開後に、わが国の政策立案に最高度の責任を負う政治家が、主演と共演の役者さんを招いて食事をし、そのことをツイートしたことが多くの障害当事者からの批判を招きました。わが国の政治家は、芸能人気取りの人が増殖しているのではありませんか。政治家がこの映画を観て真っ先に着手すべきことは、障害者施策の抜本的改善・拡充以外に何もないでしょう。

堂平天文台観測ドーム

 この画像は、元は東京大学の天文台の一つであった堂平天文台の観測ドームです。埼玉県都幾川町の堂平山の山頂付近にあります。施設設備の老朽化と国立大学に対する予算削減の中で廃止され、都幾川町に払い下げられました。

 天文ファンにとっては「聖地」の一つといっていい。けれども、現在の観測機材とその状態について明記している確かなページはどこにもなく、現地に行って確かめてきました。日本光学製(現ニコン)の91cm反射望遠鏡を主鏡に、同架望遠鏡には15cm屈折式2基と20cm屈折式 1基が、ほぼ国立天文台の当時のままの性能を維持して残っていました。

 今度は、晴天の日の夜空に覗いてみたい。これまでに覗いたことのある望遠鏡の最大口径は30cmまでだから、それよりもはるかに分解能の高い星空を観ることができるでしょう。

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