メニュー(閉じる)
閉じる

ここから本文です

宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

竹村英輔先生を偲ぶ

 このお盆は、竹村英輔先生(1931‐1997)のお墓参りをしました。竹村先生は、アントニオ・グラムシの研究者であり、私は大学院生時代に授業「研究方法論演習」で指導を受けました。

竹村英輔氏の墓‐「祖霊」と刻まれる(多磨霊園)

 授業の初日、研究方法論がいかに重要であるかをお話になりました。張りのある凛とした声が教室に響き、言葉の運びには無駄一つなく、理路整然としています。ここで、先生が取り出したのはW.エドマンド著『死海写本‐発見と論争1947‐1969』(1979年、みすず書房)でした。

 死海写本の発見からその真偽性をめぐる論争があり、厳密な文献史料批判を経て旧約聖書の原型であることが明らかにされていく論争過程を著わした書物です。

 授業中に回覧されたその本を手に取ってパラパラと眺めたところで、いささかたりとも中身が分かるような書物ではありません。福祉領域の研究のかけ出しである院生を前にして、いきなり「死海写本」と言われても…。

 このような院生の戸惑いを意に介することもなく、先生は実に楽しそうに満面の笑みをたたえて、この本に書かれた論争過程に研究方法論の重要性が示されていると言いました。
「これが本物の知識人とか研究者というものなのか」と圧倒された記憶が残っています。

 ルックスではなく、研究者としてカッコいいのです。どうも、このカッコよさは昔からのもののようです。性教育評論家の高柳美知子さんは、小学校の同期である竹村が初恋の人であると著書『高齢恋愛』と書いています。竹村が東京府立五中(現、都立小石川高等学校)から東大に進学した様子を、同じバスに居合わせた高柳さんが胸を焦がして眺めていたとあります(https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20110613-OYTEW60601/)。

 ロシア語を除く主要なヨーロッパの言語は、読み・書き・しゃべりのすべてに堪能でした。ロシア語が除かれているのは、先生がスターリニズムとその御用学者を考察の対象から除外していたからです。

 岩波文庫で出版されている古典の多くは、原文で読んでいます。たとえば、M.ヴェーバーやK.マルクスなどの文献を取り上げて、その一節を日本語訳の文庫本から引用する授業場面で、日本語が途中から原文のドイツ語に切り替わるようなこともしばしばありました。

 イタリアのグラムシ研究所で発表した内容を日本で研究論文にまとめ直したものがあり、その抜き刷りを私に下さったことがありました。ところが、それはイタリア語の論文なので、「日本語のものはないのですか」とお訊ねすると、「そうだった、日本語に訳すのを忘れていた」とおっしゃいます。「一体、お前はホンマに日本人なのか!」と心中叫んでしまいました。

 これらのエピソードは、並みの研究者が言うのなら嫌味以外の何物でもありませんが、竹村先生については「自然体」に見えるのです。いやっ、「自然体」にしか見えない。この頗るつきのカッコよさは、残念ながら、福祉研究の世界でお目にかかることはありません。

 学生や院生に対して、研究課題の設定と研究方法のあり方については「厳密に指導する、示唆する」という意味で厳しい先生でしたが、権威主義的な態度は皆無でした。しかし、それとは対照的に、福祉領域の研究者については相当厳しい見方をされていたのではないかと思います。

 竹村先生の祖父は、旧制浦和高等学校の設立時以来の教授で、父も同校の教授を務めた方です。私が旧制浦高を源流とする埼玉大学に赴任することになった時、「僕の親父は旧制浦校の教師だったんですよ」と嬉しそうに声かけてくださいました。

 旧制浦校は専門の基礎となる高い教養を培うところとして名を馳せ、戦後の一時期、東京大学の教養部にすることも検討された経緯があります。実は、その礎を築いたのは竹村先生の祖父に当たる竹村昌次教授だと言われており、竹村先生は高い学識と教養のある家庭の出身でした。

 1953年に東京大学教養学部を卒業しています。この時代の東大卒であれば、大学が増えていく時代であり、どこかの大学の常勤の研究職に潜り込むことくらい、たやすいことだったのではないでしょうか。

 ところが、合化労連の書記や総評のヨーロッパ駐在員の仕事を経て、1975年に日本福祉大学助教授となります。一部の評論の中には、常勤の研究職に就くまでの「不遇」を指摘する文献もあるようですが、わたしは別の見方をしています。

 竹村先生の研究室を訪ねたとき、総評のヨーロッパ駐在員であった時代に、イタリアのグラムシとの「出会い」があったことを語ってくださいました。ソ連・東欧のマルクス主義研究に辟易していた中で出会ったグラムシの文献を読み、「こんな人がいるのか」と直感的に魅かれたと伺いました。つまり、竹村先生にとっての鉱脈であるような研究テーマとの出会いだったのでしょう。

 私は、ライフワークとなるような研究課題が明確にならない限り、竹村先生は在野の生活を続ける覚悟をもった知識人であり、研究者だったと受け止めています。この厳格さが、頗るつきのカッコよさにつながっていると思うのです。

 それに比べて、当時の福祉研究の一群は、「官落ち」で構成されていたと思います。旧制帝国大学等の出身者で研究者を志したものの、「官学」ではどうも通用しない、社会学や教育学の本丸では通用しないから近接領域の社会福祉研究に流れてきたような人が珍しくなかったと思います。

 こういう社会福祉の研究者に限って、権威主義的な振る舞いが目立ちました。その典型と思えたある職業的研究者に、若かった不届き者の私が「どうしてあなたは社会福祉の研究者になったのですか」と訊ねると、「私はただ研究者になりたかったのです。社会福祉というのは、そのための器に過ぎません」と応えました。

 竹村先生を研究室に訪ねたときには、そのような似非研究者を具体的に指して、研究内容のどこがつまらないかを、研究課題と研究方法に分け入って説明してくださいました。

 アントニオ・グラムシは、事態を変革するためのテーマと情熱を持たない知識人と教育者は誤りであり、学者ぶるだけの知識人を徹底して批判の対象に据えていました。

 とくに、諸個人の生きた具体的人格とは、たとえば、どこの大学出て、給料がいくらで、某大学の先生で、某企業の会社員というような商品交換世界の抽象化を経ない、固有の人格のことであり、グラムシはそのような人間同士の結合を重要視していたのです。これと関連して、民衆を支配する方法である「権威主義的順応主義」に対する批判的人格性の発展についても論じていました。

 これらのグラムシの思想について、グラムシの『獄中ノート』から解き明かす研究に竹村先生は尽力されました。その営みの中で、グラムシの思想は竹村先生ご自身の哲学と生き方と共鳴し合っていたのだと思います。その姿は、たとえば竹村英輔著「グラムシの人格形成論」(『マルクス主義研究年報』第4号、1980年、合同出版)に垣間見るような気がします。

 竹村先生が急性骨髄性白血病でお亡くなりになる一年半ほど前に、ある研究会で発表して欲しい旨の連絡が先生からありました。その時は、都合が折り合わず、伺えなかったことが残念でなりません。今なら、竹村先生に虐待防止研究のことで山のように議論したいことがあるのに、もうあのカッコいい先生とは二度とお話しできないのですね。

 院生時代に、「これからの社会福祉研究」をテーマに開催されたティーチ・インがあり、私が院生代表で発表しました。その直後、竹村先生が近寄ってきて「なかなか良かったよ」と声をかけてくださった後、「そういえば、マルチン・ルターは『いい説教をしようと思うなら、聴衆の顔をみんなカボチャと思えばいい』と言っていましたね」と日本語で紹介してくださいました(笑)

 改めて、竹村英輔先生への感謝を表するとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。