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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

戦時厚生事業と現代の社会福祉


 先日の8月15日は終戦記念日。台風の行方を気にかけながら、NHKラジオ第1の「高橋源一郎と読む『戦争の向こう側』」を静かに聞いていました。

 この番組は毎年の終戦記念日に放送され、今年で6回目です。「戦争の向こう側」とは、戦闘現場とそのヒーローではなく、無名の兵士や「銃後の日常に暮らす人たち」が何を考え、何をしてきたかを探っていこうという主旨を表現したものです。

 第6回目の今年の放送は、作家の赤川次郎さんと中沢啓治作の漫画『はだしのゲン』が取り上げられました。赤川次郎さんは「三毛猫ホームズ」シリーズのエンタメ小説で有名です。この間、社会的な発言や作品を通じて戦争反対に向けた問題提起を手がけるようになりました。赤川さんは、その趣旨と考えを高橋さんとの対談で明らかにしていました。

 この番組を聞き、日中戦争のはじまりとともに社会事業から変質を遂げた厚生事業が、「銃後の暮らし」をどのように支えようとしていたのかを改めて確かめたい気持ちに駆られました。厚生省(現、厚生労働省)は、戦時厚生事業のために内務省衛生局・社会局から独立して設置したものです(1938年1月)。

 「銃後の暮らし」に係わった厚生事業と厚生省のキーワードは、いうまでもなく「厚生」です。それは今日の「厚生」労働省もそのまま引き継いています。

 「厚生」の出自は、孔子が編纂した『書経』にあります。儒教におけるもっとも重要な経典である五経の一つであり、「支配者が人民の生活を豊かにすること」を意味します。1945年8月15日の玉音放送で流れた、昭和天皇による『大東亜戦争終結ノ詔書』(いわゆる「終戦の詔勅」)の中では、次のように使われました。

 「朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ」

 (現代語訳。原文の「厚生」は下線部「健康と生活の保障」が該当する)
「余は、帝国とともに終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた、諸々の同盟国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、およびその遺族に思いを致すとき、余の五臓六腑は、それがために引き裂かれんばかりである。かつ、戦傷を負い、戦争の災禍をこうむり、家も土地も職場も失った者たちの健康と生活の保障にいたっては、余の心より深く憂うるところである。」

 「厚生」とは、支配者の「慈恵」による「健康と生活の保障」を意味します。「主権の存する国民」に出発点を置く概念ではありません。それは儒教的な理念上の問題にとどまらず、戦後の社会保障・社会福祉が、厚生事業の制度的問題を抱えたまま、「慈恵」につきまとう支援の劣等序列化を引きずってきた事実につながっているのです。

 日中戦争と軌を一にする厚生事業は、健康健兵政策に係わる多様な事業の拡充に重点を置いていました。徴兵検査(合格評価のランク順は甲・乙・丙・丁・戊。甲乙は健康。丁・戊は不合格で、その多くが障害のある人)を通じて、丙以上の兵力、とくに甲乙である健康な兵士をいかに多数動員できるかを重要課題としていたのです。

 その代表格は、国民健康保険法(1938年、旧国保)とその体制整備に係わる国民医療法(1942年)です。兵力供給の「貯水池」である農村部は、被用者健康保険の適用されない一般国民が多く、結核を始めとするさまざまな健康問題を抱えていました。

 しかも、当時の開業医制は、医療需要の大きい都市部に医療資源を集中させていたため、農村部の人々には医療へのアクセスそのものに多大な困難がありました。そこで、被用者以外の一般国民を健康保険制度の対象に加えるとともに、農村部に医療機関を整備するための国民医療法を制定したのです。

 第一次世界大戦後の国民の生活難に対応して制定された被用者の健康保険制度(1922年制定、1923年の関東大震災により1927年まで実施を延期)と、船員、公務員、公共企業体職員等の特定職域で働く労働者で従来の医療保険制度を構成していました。

 ここに、一般国民を対象とする国民健康保険を加え、健康健兵政策の柱となる「国民皆保険」を進めたのです。

 「国民皆保険」というと、被用者保険の適用とならない一般国民を国民健康保険に強制加入とした1961年からのイメージが強いかも知れません。歴史的な事実は、健康健兵政策を強力に進めた厚生事業で使われた用語です。「国民皆保険」という言葉自体、徴兵制の実施とともに叫ばれた「国民皆兵」に由来します。

 なお、船員保険法(1939)は、太平洋戦争の前線に物資と兵員を運ぶ危険な業務に船員を従事させるため、他に類例を見ない充実した内容の統合保険として始まりました。

 業務上・業務外を問わない医療保険給付、失業給付、年金給付の3部門を含み、被保険者とその家族の福祉増進に必要な施設整備(病院・診療所、保養所等の設置)もこの保険で行うことのできる総合保険でした(戦後、徐々に分割される)。

 さて、厚生事業期の健康健兵政策を推進した国家による「健康」への価値づけは、戦後に継続する優生思想を支配的なイデオロギーとして、障害のある人への差別と障害種別による序列化を進める思想的源泉となりました。

 戦争で障害を被った兵士の呼称は、それまでの「廃兵」から「傷痍軍人」に変わりました。軍人としての受障は「皇國男子」としての「至上の名誉」であるとして、療養所・職業訓練所・生活施設の整備等の優遇策を図りました。

 国内の物資・兵員の輸送に大きな役割を果たす国鉄労働者の、鉄道業務災害による受傷者にも傷痍軍人に準じる対策が図られ、これが戦後の鉄道弘済会による社会福祉事業につながっています。

 知的障害に係わる当時の徴兵検査の基準は、たとえば、クレペリンの分類に従って「魯鈍」を乙種、「痴鈍」を丙種とするとしています。ところが、「精神薄弱」に係わる客観的な基準が明確ではなかったため、徴兵検査の現場に混乱をきたしていました。

 そこで、徴兵検査の基準に資する「精神薄弱」の規定を明らかにするよう精神医学関係者に命じ(「精神薄弱」という用語統一の課題も含む)、1939(昭和14)年に全国の精神医学関係者の開催した研究会で、「IQ75以下」(当時の基準)とする基準が決められます。

 軽度の「精神薄弱」が乙種または丙種合格で「名誉の出征」を強いられた事実は、山田火砂子監督の映画『筆子その愛―天使のピアノ(滝乃川学園物語)』の戦時中の物語にも描かれています。出兵した元園生は「名誉の戦死」によって帰らぬ人となります。

 そして、丁種不合格の障害のある人たちは、「穀潰し」「非国民」扱いです。単に「戦力外通告」を受けたのではなく、積極的に「消去」するための政策が実行に移されました。

 身体・知的・精神のいずれの障害種別においても、国民優生法(1940年)によって「悪質な遺伝性疾患の素質をもつ者の増加を防ぎ、健全な素質をもつ者の増加を図り、もって国民資質の向上を図る」ため、「優生手術」を強制しました。

 戦後の優生保護法(1948年)は、厚生事業期の「銃後」における健康健兵政策との連続性を持つのです。現在、全国の法廷で係争中の優生保護法にもとづく「優生手術」をめぐる裁判は、戦前の厚生事業に問題の起点があります。

 これに対して、1949年制定の身体障害者社会福祉法は、傷痍軍人にとどまらず、一般の身体障害者を包括的に対象とした点で、多くの「教科書」は、1947年施行の日本国憲法にもとづく「民主的な障害者福祉法」という性格付けをしています。

 しかし、GHQの占領政策(1945-1952)は、当初の民主化と非軍事化の方針を転換し、1948年には、ロイヤル米陸軍長官が「日本を反共の防壁にする」と演説しました。この占領政策の方針転換が「優生思想」や「劣等処遇の原則」の戦前戦後を通じた連続性にいかなる影響を与えたのかについては、私は分かりません。

 ただ、戦後の身体障害者福祉法は、障害のある人を序列化する基準を定めていました。それは同法別表にある「身体障害等級表」で、厚生事業期の厚生年金保険法の「障害等級表」を基本的に引き継いだ内容です。

 この等級表は、職業復帰可能性から障害をランキングする視点で構成され、兵役に就けなくなった代わりに「銃後の産業活動」への貢献可能性を評価する性格を持っていました。この点に、「社会効用論」にもとづく戦後の障害者差別との明白な連続性を認めることができます。

 戦前と戦後の連続性の最たるものは、1931年制定「癩予防法」が戦後のそのまま存続した事実です。1953年(昭和28年)には、「既にその治療法も確立しつつあったにもかかわらず、強制隔離政策を永続・固定化する『らい予防法』を患者の猛反対を押し切って制定した」(ハンセン病国賠訴訟弁護団、https://www.hansenkokubai.gr.jp/faq/policy.html)のです。

 ハンセン病に対する徹底した「社会防衛論」にもとづく政策は、精神障害者の長期入院や「強度行動障害」を理由とする「施錠監禁」という拘束のまかり通る、わが国の現代障害福祉政策に戦前から受け継がれた「悪質な遺伝子」のあることを示しているのかも知れません。

 社会事業・社会福祉の歴史研究者である吉田久一(1915-2005)さんは、戦時厚生事業と戦後の社会事業の連続性に係わって、次のような指摘を残しています(吉田久一著『社会事業理論の歴史』、298-301頁、一粒社、1974年)。

 「戦時厚生事業は、戦時統制国家の強引な思想的造型」であり、それが「戦後の社会事業に民主主義的な主体的変革を介して戦後社会事業へと変わった」のではなく、GHQによる「強烈な指導力が働いている」下で、「戦後の社会事業が形成されていった」。

 「戦後社会事業が敗戦を契機とする主体的内在的変革を放棄しながら、『拡大』の名のもとに、外部状況の変化にやすやす身を任せた歴史的社会的意味をたずねたい」と。

ハグロトンボ♂

 名前の通り羽が黒いトンボで、胴体はメスが黒色で、オスは金属光沢のある青緑色です。わが国ではどこでも見かけることのできたトンボですが、青森県や東京都をはじめとして今や絶滅が心配されています。穏やかな水流の水辺の減少が原因だそうです。線状降水帯があちこちで発生し、「数十年に一度の大雨」が毎年降るようになってきた現実は、ハグロトンボの絶滅危惧を一段と高めています。