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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

精神衛生法のゾンビ


 先月、東京都八王子市にある滝山病院に係わる二つの続報がありました。

 一つは、滝山病院に対する国の二度目の指導と、診療報酬の不正に係る二度目の調査が入ったことです。もう一つは、患者の「姉と連絡が取れない」と強制入院の手続きを図った所沢市職員7名が虚偽公文書・同行使で書類送検されたことです。

 所沢の藤本正人市長は、8月27日の定例会見で「目の前の命を救うため、市長同意の下、入院させた」と語っています。このような言い訳は、お門違いもいいところです。

 神奈川県立中井やまゆり園の拘束事案について、当時の園長は障害のある人の「人権と安全」を天秤にかけて「安全を優先した」という言い訳をしています。所沢市長は、これと同じ論法で、「人権と命」を天秤にかけ「命を優先した」とでも言いたいのでしょうか。

 法の定めを無視した公務員の人権侵害行為に対して、このような戯言が「弁明」になると考える向きがあるとすれば言語道断です。情状酌量の余地はまったくありません。障害のある人の人権を侵害することによって、「安全」も「命」も踏みにじり、個人の尊厳を引き裂いてしまった事実にこそ行政は眼を向けるべきです。

 さて、滝山病院事件に関連して、日本精神科病院協会山崎学会長は二つの言説を発信しています。

 一つは、山崎学著「滝山病院事件のマスコミ報道を受けて」(日精協誌第42巻第4号巻頭言、1-3頁、https://www.nisseikyo.or.jp/news/magazine/images/kanto_202304_1.pdf)。もう一つは、東京新聞の報じた山崎会長のインタビュー記事で、「身体拘束『なぜ心が痛むの?』『地域で見守る?あんた、できんの?』精神科病院協会・山崎学会長に直撃したら…」(https://www.tokyo-np.co.jp/article/261541)。

 この二つは、それぞれトーンは違いますが、山崎会長の一貫した考えを率直に表した内容です。両者からポイントを拾うと次のようです。

・拘束して治療のプログラムに乗せるのが今の法律上の建前である
・長期入院については「僕は幸せだと思う」
・国連障害者権利委員会から勧告を受けた「強制入院制度の廃止」については、「余計なお世話」で、「国連がそんなに権威のある機関だと思ってない」
・精神科の診療報酬を一般科医療と同等に評価するべきである
・安田病院、宇都宮病院、大和川病院の各事件の教訓が生かされないまま、重篤な身体合併症を抱えた精神障害者を民間病院に任せている問題を正視し、早急に都道府県単位で精神障害を持った身体合併症に対応する施設整備を行う必要がある

 東京新聞の記事に対しては日本障害者協議会の藤井克徳代表がコメントを寄せ、「人権感覚はなく、国際規範すら切り捨てる、拘束についての持論は言い訳と居直りだ」と指摘しています。

 藤井さんのコメントには全く同感です。ただ、山崎会長の発言は、事の良し悪しは別として、1950年制定の精神衛生法が現代の精神医療の現場でゾンビのように生き続けている現実を端的に表現しているように思えます。

 精神衛生法は、それ以前の私宅監置を廃止し、社会防衛的な見地から警察官・検察官からの通報制度を含む強制入院の手続きを定め、都道府県立精神病院の設置を義務づけるものでした。

 ところが、公立病院の設置は進まず、1960年から国は民間精神病院(現、精神科病院)の設置に対する国庫補助事業を設けて、大幅に民間精神病院を増加させていきました。つまり、入院中心主義にもとづく精神科医療を民間精神病院に依存して支える構造を政策的に推し進めたのです。

 その後、精神病院で発生した暴力や不正請求事件の舞台となった病院の設立年をみると、その多くが精神衛生法に基づく民間精神病院への国庫補助事業を契機としていることが分かります。なお、( )内は事件発覚の年です。

・安田病院事件(1969年及び1979年) 1963年設立
・宇都宮病院事件(1984年) 1961年設立
・大和川病院事件(1993年) 安田病院の後身
・朝倉病院事件(2000年) 1961年設立
・神出病院事件(2020年) 1963年設立
・ふれあい沼津ホスピタル事件(2023年) 1987年設立
・滝山病院事件(2023年) 1970年頃設立

 以上の精神科病院は、設立者とその同族による徹底した支配も共通して見受けられます。

 精神科病院の不祥事の発生構造について、大和川病院事件を中心に深く考察した労作があり、お読みになることを強くお薦めします。その論文は、仲アサヨ著『「ケアと論理」精神病院不祥事件が語る入院医療の背景と実態―大和川病院事件を通して考える』(https://www.ritsumei-arsvi.org/publication/center_report/publication-center11/publication-83/)です。

 これらの精神科病院には、利益至上主義と凄惨な暴力が組織的に行われている点に共通性があります。

 暴力の発覚した病院では、過剰診療に医師や看護師配置の水増しによる診療報酬の不正請求が必ずと言っていいほど確認され、病院長や理事長の高額報酬が目立ちます。

 安田病院を設立した安田基隆氏は、大阪市住吉区の高額納税者番付で上位の常連でしたし、日本大学附属板橋病院の事件でも起訴された神出病院の藪本雅巳理事長は、毎年2億5千万円相当の役員報酬が支払われていたと報じられています。

 精神科病院だけではなく、一般診療科の大病院でも病院長や理事長には相当高額な報酬があるのかも知れません。しかし、医師や看護師の水増しによる不正請求や、「温水は出ない」「冬は零下まで室温が下がる」「カビだらけ」(神出病院事件第三者委員会報告書)というような劣悪な環境を放置する現象は、一般病院にはまず見当たりません。

 患者が入院処遇に不服のある場合は、精神医療審査会に連絡する仕組みがあり、滝山病院の公衆電話にもこの掲示がなされていたと、日精協の山崎会長は言います。

 しかし、精神疾患に伴う精神症状があり、かつ重篤な身体疾患を抱えている患者さんは、このような訴えの手続きをとることに相当な困難を抱えていますから、この点だけをもって患者に対する人権が配慮されているとはとても言うことができません。

 このようにみてくると、一連の精神科病院の暴力・不祥事案は、精神衛生法以来の精神科医療の問題が根本的に克服されていない点に、問題の本質があるように思います。

 まず、日精協の山崎会長に「拘束から治療プログラムに乗せるのが今の法律の建前である」と言わしめるのは、強制入院制度が存続し、それが今でも活用され続けている現実があるからではないでしょうか。所沢市による医療保護入院の仕組みの悪用は、この実態を反映したものだと考えます。

 次に、行政が国庫補助金制度によって民間病院に依存した入院中心主義の精神科医療システムを作り上げた経緯の中で、一方では、行政が民間病院に精神医療問題を丸投げし、他方では、民間病院が医療水準の上がらない責任を行政になすりつけるという、不毛な悪循環を生み出してきた問題です。

 安田病院事件と大和川病院事件において、問題解決に向けて保健所や大阪府の腰が重かった原因は、警察絡みのややこしいケースもすべて引き受けてくれる「最終処分場」としての病院を、行政が「有難く活用してきた」点にあることが明らかになっています。

 この点は、精神疾患と重篤な身体合併症を抱える患者さんの「最終処分場」として、行政や福祉が滝山病院を活用していた事実と何も変わりません。完全に連続しています。精神衛生法(1950)から精神保健法(1987)を経て、精神保健福祉法(1995)になった今日においても、患者さんの人権保障を前提した医療システムはどこにもないのです。

 第三に、虐待行為の残忍さです。この点については精神科病院の「閉鎖性」の問題が指摘されているようですが、私見によれば、障害者虐待の多くの事例で確認できる事案よりも、凄惨で残忍さが際立っているように感じます。

 この残忍さと対照的に、病院長や理事長は傍若無人で、裏では政治家や高級官僚とのパイプを持つ金満家が多いようです。病院では、設立者とその一族を頂点とする徹底したカースト制が敷かれ、悪事を働いてでも支配者の利益を追求することに病院組織の目的が置かれ、構成員はその目的に資する役割を果たした度合いに応じて重用される。

 このような組織の特性は、マフィアや暴力団のような反社会的集団とほとんど変わらない。「ファミリー」「一家」の頂点にいるボスへの忠誠を誓う「鉄の掟」が不文律として出来上がり、一般社会とは異なる反社会的価値が組織内部で共有されていくのです。

 ファミリー内の身分制度の「下っ端」に患者を抑圧管理するための「汚れ役」を任せて、いざ病院内部の暴力が世間に露見したあかつきには、ボスが「トカゲの尻尾切り」を行う。

 このような反社会的集団が存続し続けるのは、一般社会の中でこのような組織の存在が「必要悪」として認められているからです。バブルの時代の地上げに、銀行やデベロッパーが反社会的集団を活用していた事実は広く知られており、映画「マルサの女2」にも描かれています。

 精神科病院については、「ややこしい患者の最終処分場」としての役割を行政と福祉が「必要悪」と認めて活用し、その病院組織のバックには有力な政治家が控えています。ここで、ファミリーのボスが世間に対して少々傍若無人に振舞っても何も不思議ではありません。「怖いもの知らず」に傾き、場合によっては、振り切れているからです。

西武百貨店のストライキ

 西武百貨店のストライキは、大手百貨店としては61年ぶりだそうです。西武百貨店の周辺では、マスコミ各社のクルーが山のように押しかけていました。テレビニュースの街頭インタビューで、「いつも買い物している百貨店でストをされると迷惑です」という声がたびたび登場しました。

 労働者としての正当な権利行使を前に、労使対立の問題状況や論点について考えることもなく、自分の日常に埋没した不都合から「迷惑」だと主張する。このような人が、保育所や障害のある人のグループホームの設置に反対し、「ややこしい精神障害者」を病院に隔離収容することの「必要悪」を指示するのではないでしょうか。