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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

子ども家庭庁

 6月15日に「子ども家庭庁」設置関連法案が賛成多数で可決され、2023年4月に同庁は新設されることになりました。

 この庁は、厚生労働省や内閣府にまたがっていた子どもに関連する部局を統合し、子ども政策を一元的に進めるとともに、他の省庁への改善勧告権を持つところです。ただし、学校教育に係わる部局は、これまで通り文科省に残ります。新聞報道によると、文教族議員の反対があったそうです。

 学校教育に係わる部局が文科省に留まることによって、野党が求めていた「幼保一元化」は見送りになったと報じられています。その問題も看過できませんが、「ブラック校則」に象徴される子どもへの抑圧、体罰、教育虐待、いじめの深刻化など、文科省所轄の学校だけでは長年解決しえなかった問題が山積みですから、この組織体制を旧態依然のままとしたことに私は疑問が拭えません。

 当初の原案では「子ども庁」という名称だったところに「家庭」を入れ込んだことをめぐり、多くの批判的見解とChange.orgなどによる反対運動も起きました。「子どもは家庭を基盤として育つ」のだから「家庭を入れるのは当然だ」という一般的な多数意見があり、ここにつけ入る形で「家族依存型政策」の余地を残したのでしょう。

 「家庭」を入れ込んだことに、私はとても失望しました。今さら「家庭」を入れることに積極的な意味があるとはまったく思えないからです。

 1990年の「1.57ショック」(この数字自体は、1989年の合計特殊出生率です)は、当時の衝撃的なニュースでした。これ以来、様々に対策を講じてきたとは言いますが、子ども・家庭の幸福の充実につながる実効性は殆どなかったのではないでしょうか。

 2021年に出生数は81万1,604人となり、合計特殊出生率は1.30にまで下がりました。これは国の推計より6年早く、少子化が加速している深刻な事態を示しています。子ども虐待対応件数は20.5万件、小中学生の不登校は19.6万件と、いずれも同年に最多を更新しています。

 これらの虐待と不登校の膨大な人数は、虐待や不登校がもはや例外的な事象ではなく、今日の社会が法則的に産出していることを示しているのです。つまり、出生率の減少、子ども虐待と不登校の増加という問題は、家族の生活上の困難と歪みが長年積み重なって深刻化し、一向に改善されてこなかったという証左です。

 今回法制化された「子ども基本法」は、わが国が1994年に批准した子どもの権利条約に対応する国内法という位置づけにあると説明しています。それでは、1994年に批准したのは形だけのことで、子どもの意見表明と参画の権利の実質化については、「ずっと放り投げてきました」と告白しているのでしょうか。

 実際、国連子どもの権利委員会による総括所見は、すでにわが国に対して5回提出されており、深刻な事態の改善が求められ続けてきました(最新のものは、次を参照のこと。https://www.nichibenren.or.jp/library/pdf/jfba_info/publication/pamphlet/kodomo_pam04-05.pdf)。

 保育所の問題一つとっても、この30年余りの政策にどれほど一貫性があったのでしょうか。保育所政策はこれまで厚労省「児童家庭局」が担当してきました。ここで、この組織の名称に「児童」と「家庭」が一体となっていることには何の意味もなかったことを白日の下にさらしているのです。子育ての営みは「できる限り家庭で頑張ってください」という一貫性だけが目立ちました。

 1980年代の後半から90年代にかけての児童福祉には、明白な政策判断の誤りがありました。児童人口の減少に係わる政策方針に見込み違いがあったと考えています。ごく簡単に言えば、〈子ども数の減少〉⇒〈児童福祉施策の縮減〉という構図がありました。

 実際、今日、保育所と高齢者施設の両方を手がけている社会福祉法人の多くは、このような構図にもとづいて、この時期に高齢者施設にシフトする政策的な誘導を受けています。

 90年代当初は、虐待対応に必要不可欠な児童相談所の一時保護所と児童養護施設の定員についても、縮小する方針を採っていました。ところが、子ども虐待の急増が始まるのです。そして、2000年に子ども虐待防止法が施行されたものの、児童相談所の人員体制の不足と一時保護所・児童養護施設の満杯状態が続きました。

 古荘純一さんによると(『教育虐待・教育ネグレクト―日本の教育システムと親が抱える問題』25頁、2015年、光文社新書)、子ども虐待防止法の施行当初、厚労省は「虐待が世間的に認識されるまでは、虐待の件数は増えるものの、その後は下降傾向をたどるという予測を立てていました」と指摘しています。

 この指摘に接したとき、私は眼が点になりました。この話が本当だとすれば、政策当局は、90年代以降の子ども虐待の急増要因である、子どもと親をめぐる生活困難の複雑な構造的問題の深刻化について、基礎的な認識がなかったというということになります。

 一部の研究者は、子ども虐待の実数が増えている訳ではなく、虐待防止法と子どもの権利に関する周知が進んできた結果、対応件数が増加しているだけだと言い続けています。しかし、この説が正しいのであれば、厚労省の見込み通り、虐待防止法の施行から20年以上経過した今日、とっくに対応件数の「下落傾向」に入っているはずではないでしょうか。

 2016年に投稿された「保育所落ちた日本死ね」というブログの書き込みが大きなニュースとなったように、子育て支援、子ども虐待など、子どもをめぐる政策対応のほぼすべてにおいて後追い状態が続いてきたのです。このような過ちの根源は、政策の時代錯誤な「家族への依存」にあります。

 「子ども庁」から「子ども家庭庁」への名称変更に伴って、支援対象も「子どもを産み育てる者」から「子どものある家庭」へと変えられています。「自分の生まれ育った家庭は地獄だった」と語る多くの被虐経験のある人たちは、「個人としての子ども」への支援を基本に「個人としての親」への支援を位置づけるべきだと声を上げました。

 レノア.E.ウォーカーは、配偶者に対する暴力で女性が被害にあう要因の一つに、家族の深い愛情と絆を重視する伝統的な価値観があり、暴力を振るう夫から女性が逃げ出しにくい関係構造を作ってしまうと指摘しています(“The Battered Woman”, pp.65-70, Harpercollins Publishers)。

 つまり、家族内部の虐待は、配偶者・子ども・障害者・高齢者のすべてに共通して、家族依存型の政策と社会構造に重要な発生要因の一つがあると言えるのです。

 わが国の家族依存型の介護・福祉・子育ては、すでに破綻しています。新設される「子ども家庭庁」には、家族を子育ての「含み資産」として使い回すことなく、子どもの権利条約を柱に据えて、子どもの幸福追求権の充実に資する一貫した子ども政策を実現してほしいと願っています。

 最後に、私の杞憂を。厚労省の前身である厚生省は、1937年(昭12)の盧溝橋事件に始まる日中戦争を受け、「銃後の守り」を固めることを目的として翌38年(昭13)に発足しました。内務省の社会局と衛生局を母体に、それまでの社会事業を戦時厚生事業としてバージョンアップしていくのです。私には、ウクライナ侵攻を契機とする防衛費の拡大と子ども家庭庁の創設は、かつての戦時厚生事業期を彷彿とさせるものです。

喜多院葵庭園の紫陽花

 梅雨の時節は、紫陽花の色の移ろいが目に留まります。紫陽花の色が変化するところから、一般的な花言葉は「移り気」「浮気」「無常」ですが、色別の花言葉もあるようです。青は「辛抱強い愛情」、ピンクは「元気な女性」(日比谷花壇の解説によりました)。「移り気」な子ども政策の下で、母親には「辛抱強い愛情」を持つ「元気な女性」であることを強いることは金輪際やめてください。