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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

子宝思想の終焉と子育ての歴史的転換


 障害のある子どもの養育は、この20年ほどの間に、「先回り」と「外注化」の傾向を強めてきたようにみえます。わが国の一般的な子育てのあり方に接近したとも言えるのですが、この背景にはどのような経緯があるのでしょうか。

 柏木惠子さんによると(柏木惠子著『子どもが育つ条件―家族心理学から考える』、2008年、岩波書店)、わが国の古からの子育て文化である「先回り育児」のあり方が、1970年代後半から急速に内実を変化させていったそうです。

 この変化の決定的な要因は、1975年に合計特殊出生率が2を割り込んで少子化が一段と進み、「子どもの数と生活の豊かさをトレードオフ」(両立しない関係性。一方を取ると他方を失う関係)にしたことです(前掲書41頁)。

 恋愛結婚が見合い結婚を抜いてわが国で主流になったのは1974年です。男女それぞれが性的主体である個人として析出し、イエ制度からの離脱が進みました。この頃より少子化が進展し、個人としての生活の豊かさと子どもの数をトレードオフにしたのです。

 1980年代のアメリカで生まれたライフスタイルであるDINKS(Double Income No Kids)が、住宅取得と教育費の高騰が著しいわが国のバブルの時代に、生涯子どもを持たずに夫婦の暮らしの豊かさを担保する生き方の一つとして注目されたこともありました。

 「育児不安」という言葉は、この時代にはじめて登場します。それ以前の時代は、結婚した女性が子を授かり、慈しむように子育てする営みは、喜びや生きがいを実感する当たり前の行為でした(前掲書2-3頁)。

 少子化の進展と育児不安の拡大は、子どもに係わる価値づけの歴史的転換を意味していました。子どもそのものが世の何ものにも勝る宝だとする「子宝思想」の終焉です。

 山上憶良が万葉集に詠んだ「銀(しろがね)も金(こがね)も玉もなにせむに勝れる宝子に如(し)かめやも」(銀も金も玉も尊い宝ですけれど、子ども以上に尊い宝がありましょうか)にあるように、「子宝思想」はわが国の共同体を支える子ども観でした。

 子宝思想に終止符が打たれた1980年代を経て、従来はごく一部の社会階層にしかみられなかった子育てに係わる事象が、広範囲に拡大するようになります。

 その一つは、子ども虐待です。全国児童相談所の子ども虐待対応件数に係わる統計の開始は1990(平成2)年です。「虐待」を児童福祉問題の政策的重点事項として摘出せざるを得なくなったことを示しています。

 もう一つは、少なく産んだ子どもを大切に育てる営みの歪みと肥大化です。子どもが競争社会を勝ち抜いて自立する課題の達成に、強迫性が宿るようになります。親は子どもに種々の習い事を「投資」し、ブランド大学への進学とよりよい就職自立に向けたアドバンテージをわが子に確保しようとします。

 これら二つの事象は、子宝思想にもとづく親密圏がわが国の親子関係から消失したことを示すものです。児童虐待防止法の虐待も、教育虐待も、ある意味では同根の事象に過ぎません。

 わが国の「子宝思想」を土台にもつ子育て文化の要は、子どもの必要を親が予め「察して」適切な対応をしてやる点にありました。「阿吽の呼吸」など、「察し」を重んじるわが国の人間関係の文化的土壌に支えられた営みであり、これが、子宝思想にもとづく「先回り育児」でした。

 それが今や、子どもの将来に親の目標としたい夢を描き、それに向けて子どもに努力させることが「先回り育児」となりました。子どもにとっての必要や的確な「察し」から外れ、親の「よかれ」や「あなたのことを思って」型の「先回り」に転じてしまったのです。

 わが子への期待は、他の子どもよりも「より賢く」「より逞しく」「より早く」です。成績優秀、スポーツ万能等に向けた包括的な「先回り育児」への「投資」を通じて、ブランド大学への進学から一流の就職を果たさせようとします。

 ここで、教育虐待や「あなたのことを思って」型虐待(2015年2月2日、及び2022年4月11日ブログ参照)が深刻化します。自分の子育てが「勝ち組につながる先回り」になっているかどうかの不安が高じ、そこにつけ込んだ習い事・教育産業の繁栄と氾濫も広がっていきます。

 さて、以上のようなわが国における「子育ての歴史的転換」が進む中で、障害のある子どもに係わる子育てはどのような変化を見せたのでしょうか。

 障害のある子どもたちの必要や的確な「察し」を親が持つことは、一般的には、とても難しい営みです。しかも、1979年養護学校義務制の実施以前、「就学猶予・免除」規定によって、学校教育を受ける権利は制度的に剥奪され、情報源も限られていました。

 そのような中、1970年代の「不就学をなくす運動」においてはかり知れない意義を持った取り組みは、障害と発達支援に係わる知見を専門家と親が共同学習し、「日曜学校」等の実践を通じて、障害のある子どもたちの発達の事実をみんなでつくる営みでした。

 つまり、障害のある子どもたちを子宝思想で受けとめ、支援者と親が協働して自分たちの子育ての内実を豊かにすることによって、障害のある子どもたちへの支援制度を外延的に拡充させていったのです。

 1979年養護学校義務制の実施や全国自治体で実施されるようになった乳幼児健診は、障害のある子どもたちにふさわしい子宝思想の制度的所産です。子どもたちの必要と的確な「察し」にもとづく子育てや学校教育等を社会的に打ち立てた時代です。

 さて、1986年男女雇用機会均等法の施行以降、女性のライフコースに歴史的な変化が生まれます。女性が結婚・出産を機に専業主婦となり、子育てに生きがいと喜びを感じる時代は過去のものとなりました。女性は、職業人として、個人として、自らの生き方に係わるアイデンティティの確立が求められるようになったのです。

 多くの女性が当たり前のように専業主婦になった時代は、子育てをめぐる行き詰まりや困難に直面したとき、自分と同じように専業主婦になった学生時代の友だちや近隣の親族を頼ることができました。専業主婦はネットワークに支えられた存在だったのです。

 女性が職業人として活躍できる時代に入ると事態は一変します。キャリアを積みながら個人としてのアイデンティティを明確にして、自らの豊かな人生を展望しようとすればするほど、専業主婦という立ち位置は、人間関係や社会とのつながりが乏しく、世の中からの「置いてきぼり感」の免れない孤独に直結したものへと変化します。

 柏木惠子さんが前掲書(1-36頁)で指摘しているように、1980年代から発生するようになった「育児不安」の主体は専業主婦です。フルタイムの母親の方が圧倒的に育児不安を抱えていないことを明らかにしています。

 障害のある子どもたちの母親についても、従来の男性と同様に、正規雇用で働き続けるライフコースを選択する人たちが増加していきます。母親の育休期間(場合によっては父親の育休をも合計した期間)に就学前の子ども支援に目途をつけて、職場復帰するライフコースがスタンダードになりました。

 専業主婦が主流だった時代は、母親が障害のある子どもを「丸ごと」受けとめて、療育や学校教育と連携した子育てを心がけていました。支援者と共に歩みながら、障害のある子どもにとっての必要と的確な「察し」にもとづく子育てに接近しようとしたのです。

 ところが、専業主婦が育児不安を抱えやすい位置づけに変わり、障害のある子のきょうだいの大学進学や自分たちの老後を含む人生の豊かさを確保するためには、稼働収入を減らさないライフコースの選択を優先するようになります。そうして、障害のあるなしに拘わらず、子育ての渦中にある家庭の共働きがもっとも一般的な姿となります。

 今や、特別支援学校の帰りのスクールバスに乗るのはごく少数の生徒たちになりました。多くの子どもたちは、放課後を支援するさまざまな事業所のお迎えバスに乗車します。

 共働き家庭の子どもたちの多くが、習い事教室や塾で放課後を過ごすのと同様に、障害のある子どもたちの放課後についても、習い事教室化した放課後デイサービス等を活用する「外注育児」が主流になっていきます。

 今日の放課後デイサービスは、英語、スポーツ、将来の就職自立に向けた取り組みなど、多様な支援プログラムを看板に掲げて競い合っています。親も日替わりメニューでそれらを利用します。ある子どもの放デイの利用実態は、月・木が英語塾系、火・金がスポーツ系、水・土が生活習慣の確立系という組み合わせで、親の「よかれ」による「先回り」の広がりを確認することができます。

 ただし、習い事教室化した多くの放課後デイサービスの支援は、一部の例外を除き、障害特性にかかわる専門性は低く、貧しさの中での多様性に留まる水準です。最悪の場合、障害のある子どもたちに行動障害等の二次障害の発生と拡大をもたらす社会資源になっているところまである始末です。

 このような障害のある子どもたちに係わる「先回り育児」が目立つようになったのは、2000年代の後半からでした。その起点は、障害者自立支援法にあります。

 この法制度は、障害のある人たちを精神科病院や24時間型施設への「囲い込み」から解放し、障害のある人たちの市民としての権利保障を進めるのかと思いきや、病院や施設から追い出すだけで、安心した地域生活を営む新たな条件整備を十分に進めないまま、就職による自立を制度的に強迫しました。

 とくに、「学校を卒業したらすぐに福祉サービスを利用する」ことを制度上認めない仕組みは、一方では、障害のある子どもたちの将来の就職自立に向けた親の「先回り育児」を加速させ、他方では、当初から就労継続支援B型を目指した、形だけの、無駄な回り道としての就労移行支援サービス利用の氾濫を招きました。

 「子宝思想」の終焉からはじまった「子育ての歴史的転換」は、多くの子どもたちに不登校・引きこもりを増大させ、子ども虐待や親に対する暴力を拡大し、学校さえもが親と教育行政の「よかれ」にもとづく成果主義に振り回される事態を招きました。

 障害のある子どもたちに係わる今日の「先回り育児」の広がりについて、私は二つの心配を抱いています。

 一つは、すでに多くの子どもたちに拡大してきた困難を、障害のある子どもたちも同様に抱えるようになるのではないかという懸念です。障害のある子どもたちの不登校や引きこもりが増大し、行動障害の拡大が家庭においても現行制度上のいかなる社会資源においても受けとめることのできない人たちを拡大する問題の深刻化です。

 もう一つは、「察し」の育児文化が強迫的な「先回り育児」に変質にすることによって、障害のある子どもの意思形成・意思決定・意思実現に係わるすべての支援がこれまで以上に形骸化しかねない問題です。障害のある子どもの意思決定を脇に置いたまま、進路や居住のあり方を親と支援者の談合によって「先回り決定」してしまうこれまでの悪習を断ち切る確実な手立てを講じない限り、意思決定支援の進展はありません。

 多くの民衆は、勝ち組に残れないことを宿命づけられています。子宝思想が終焉を迎え、親子の親密圏の形成に困難の高いライフスタイルの広がった現実は、家族と社会がルサンチマンを拡大する苗床になっていることを意味するのではないでしょうか。

 「異次元の子育て支援策」は、成長・発達の主体である子どもを真ん中に据えた「子育ち支援」である内実を担保しなければならないのです。

カマキリの赤ちゃん

 25年ほど前に近所の方から、お腹が卵で膨らんだメスのカマキリを頂戴し、庭に放してやりました。以来、その末裔が庭に住み続けています。農薬を撒かず、できるだけ多様な植生を心がけるだけで、わが家の庭は「昆虫宝思想」と「トカゲ宝思想」を保つようになりました。現代の「よかれ」による「先回り」は、ほとんど欲ボケかも知れません。