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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

きょうだいの生き辛さ


 「母子惑星を周回する父衛星」で構成する家族の下で、障害のある子どものきょうだいがどのようにして生き辛さを抱えるのかについて、私は仮説的に論じたことがあります(宗澤忠雄編著『障害者虐待―その理解と防止のために』205-208頁、2012年、中央法規出版)。

 重要な論点の一つに、きょうだいの「背伸び」を据えました。父親不在のウィークデーに、障害のある子どもの養育役割を子ども期のきょうだいが母親と分担することから生じる問題です。

 ヤングケアラーの一種ですが、母親の養育の「お手伝い」という形をとるため、「ヤングケアラー」として十分理解されているとはいえません。

一般の家庭において上の子が下の子の面倒をみる営みは期間限定であるのに対し、障害のある子の養育を親ときょうだいが共同する行為には長期性があり、場合によっては、生涯にわたることもあります。それは、「お手伝い」をはるかに越えています。

きょうだいが母親から養育の分担で「当てにされる」ことは、家族の一員としての責任感や誇りをきょうだいが抱き、むしろ望ましいことであるかのようにさえ捉えがちです。

 ところが、父親不在の日常生活で母親ときょうだいが共同する養育では、父親の代替役割を担うきょうだいに、「親性」の求められる「背伸び」が生じます。きょうだい自身の「子ども性」が親から第一次的に大切にされるのではなく、本来は「親」が担う養育役割をきょうだいという「子ども」が不在の父親に替わって分担していることになります。

 このような養育の共同分担をめぐる主要な問題点は次のようです。

 一つは、ウィークデーの間、母親から養育の共同者として当てにされているきょうだいが、ウィークエンドに父親が家庭内に戻ってきた途端に、子どもに引き戻される問題です。

 ウィークエンドだけ、母親は父親を「当てにできる」家族で生じる現象です。土日だけですが、父親は「周回衛星」から「母子惑星の住人」に戻ってくるのです。そこで、きょうだいは「親性」と「子ども性」の間を行ったり来たりしなければならず、日常的な情緒的不安定を惹き起こすリスクを抱えることになります。

 もう一つは、母親は父親を養育の共同者としては完全に見限っている場合の問題です。きょうだいは常に父親の代替役割を果たす「背伸び」を強いられるか、母親の「配下」となる「従属的地位」において「半背伸び」の状態を日常化します。

 いずれの場合も、少なくとも三つの問題があります。

 まず、きょうだいの「子ども性」に対する親の配慮が不十分になる点です。きょうだいへの親の愛情不足や、好き勝手に友だちと遊ぶ時間を持てないなど、子ども期にふさわしい人間関係と日課の構成が歪められ、剥奪される問題です。

 次に、養育を分担するきょうだいの「背伸び」から派生する問題です。きょうだいの「子ども性」に親の手当てや配慮が不足すれば、きょうだいの成年期に、子ども期に満たされなかった「子ども性」を引きずることに由来する生き辛さを抱きかねません。

 三つ目は、家族内部の世代間境界が不鮮明になることによって、きょうだいの自立に困難が生じる問題です。

 両親がともに「親性」を担保して子どもの養育を共同分担する家族は、両親が子どもの上に位置づく家族のヒエラルヒーを構成します。

 ここで、子どもたちは思春期を迎えると、一般に、両親世代とは異なる若者文化の担い手として、両親と距離を取るようになります。この局面では、子どもたちと両親との関係に対立や戸惑いが生じることもしばしばあるでしょう。

 しかし、両親は自分たちとは異なる新しい世代に生きる子どもたちの、自立への過程として子どもたちの思春期以降の歩みを受けとめようとします。一方、子どもたちは子どもたちなりに、自分たちとは異なる時代を生きてきた両親の世代の、これまでの歩みに対する理解を深めようとします。

 このプロセスは、「子の自立」であると同時に「親の自立」でもあります。

 こうして、両親と子どもたちの間にあるべき世代間境界の明確さは、「自立した親」から「子どもが自立する」ために必要不可欠な境界です。この点は、とくに家族療法の領域で検証されてきました。

 ところが、父親不在の家族における養育役割をきょうだいが母親と共同する営みには、「親性」への「背伸び」や「母親の配下」としての子ども性の剥奪があるため、家族内部の世代間境界は不鮮明になります。それは「親のきょうだいへの依存」と「きょうだいの自立困難」をもたらしかねないのです。

 障害のある子の養育を母ときょうだいが共同する問題と類似する事象を考察した労作に、大平健著『貧困の精神病理―ペルー社会とマチスタ』(1996年、岩波書店)があります。

 ペルーでは、父性性に欠ける父親の下で営まれる母親の子育てが広く認められ、そこでは常に長男が父親の代替役割を担わされ、母親の他の子どもたちに対する養育を共同分担しています。

 この長男は、母親から父親の代りを「当てにされる」ことに誇りを持ちながら、自らの子ども性を親に受けとめられず、世代間境界の不鮮明な家族の下で育つことになります。このような育ちに由来にするルサンチマンを介して、この長男は「父性性にかける」「大人になり切れていない」親になってしまう世代間継承の問題を解明しています。

 大平さんの書は、このような現象を中産階級の上層、中層および下層のそれぞれについて明らかにしており、貧困の世代間継承を紡ぎ出し続ける家族の関係性とメンタリティの問題を解き明かした貴重な研究です。

 とくに、貧困化法則に覆われるペルー民衆の暮らし向きの中で、落層(社会階層を下げること)を回避するための生活努力の一環として、「貧困の精神病理」が家族に組み込まれ継承されている構造的問題を解明している点は、わが国における貧困の世代間継承の考察にもまことに示唆的です。

 日本の障害のある子どもの養育において、「母子惑星を周回する父衛星」や「養育を共同するきょうだいの生き辛さ」が発生しやすい問題をこれまで指摘してきました。しかし、これらの問題は、翻ってみると、それぞれの家族や親のあり方に還元して理解することのできない基本性格を持っています。

 ここには、障害のある人のいる家族を取り巻く貧困化法則の下で、落層を何とか回避しようと、不断に生活防衛の努力を強いられている家族の姿があります。つまり、社会的で構造的な問題です。

 たとえば、障害のある子どもが産まれ、通院や療育のために親が時間と労力を割かなければならない事態に直面した。ここで、父母の勤務先の職場がともに、障害のある子どもの養育を共同分担していく条件を満たしているのは、わが国においてはレアケースと言っていい。今さら「異次元の子育て支援策」を言い出すお国ですからね。

 そして、職場で残業や転勤を厭うことなく働くことによって、正規雇用と間違いのない収入を確保する役割は父親が担い、子どもの養育は専ら母親が担う形にするところが落としどころとなる。

 つまり、近代家父長制にもとづく性別役割分業は、わが国における家族の生活防衛のための「自然」な対処となりがちなのです。障害のある子どもの父母は、生活防衛の観点からもっとも無理の少ない選択肢として、性別役割分業を受け入れるのではないでしょうか。

 そして、障害のある子のきょうだいたちには、せめて大学までは安心して進学できるようにしてやりたいと考える。母親は養育の合間を縫うようにしてパート等の仕事に従事し、高額な高等教育に備えた追加的所得を確保しようと懸命に努力する。

 その分、障害のある子どものきょうだいに何らかのしわ寄せが生じるのは止むを得ない。きょうだいが大きくなったら、親の苦労も「分かってくれるだろう」と。

 このような生活防衛のための努力を重ねる中で、あるいは結集力を強める家族があるかと思えば、すれ違いを強めてバラバラになっていく家族もあります。

 この違いを産出する分岐点は、「父母のあり方」や「子どもの育て方」の問題と言うより、貧困化法則に晒されている度合い、つまり「落層に係わる現実的リスクの大きさ」に基底的条件があるとみるべきです。

 公的主体である行政が「落層に係わるリスク」回避の施策を拡充せず、その現実に恨みを抱いた民衆が自身の個人としての限界や無力感に苛まされてルサンチマンに陥る。つまり、ルサンチマンの本質は観念的な問題ではなく、貧困化法則によって抑圧される民衆に「貧困の世代間継承」をもたらす構造的メンタリティです。

 シェーラーがルサンチマンに陥りやすい職業と階層について、落層への強いリスクに晒される社会階層の「境位」にある人たちだと指摘するのは(5月22日のブログ参照)、ルサンチマンが貧困化と落層のリスクに係るメンタリティであることの証左です。

 大学の教員をする中で、障害のあるきょうだいのいる学生が私のゼミに入ってくることがしばしばありました。今日のブログで論じたことの着想の多くも、その学生たちと対話する中で得たものです。

 私の記憶に鮮やかな印象を残した一人の女子学生がいました。この学生には知的障害のあるきょうだいがいます。お父さんは「母子惑星を周回する父衛星」ですが、大企業の管理職をしており、家族の経済的条件は恵まれていました。

 お母さんは、この学生の子ども期には一貫して愛情を注ぎました。きょうだいの「子ども性」をうんと大事にして対処したようです。

 そして、障害のあるきょうだいの養育はお母さんが責任を持つから、不慮の出来事が起きない限り「あなたは何の心配もしなくていい」し、「将来、障害のあるきょうだいの面倒をみる必要もない」。とくに、思春期以降は、「あなたは、あなた個人として自由に生きなさい」というメッセージを投げかけ続けたそうです。

 この学生は、小さい時からバレーを習い、学生時代にはあるバレー団のバレリーナとして活躍していました。バレリーナの踊りのように伸びやかで躍動感のあるこの女子学生のメンタリティは、間違いなくお母さんの一貫した教育方針の成果であると思います。

 すべての子どもたちは、障害のある家族のあるなしに拘わらず、「ヤングケアラー」としてではなく、子どもにふさわしいケアと愛情を受ける存在であることが社会的に保障されるべきです。この保障は、子どもの権利条約の締約国の責任です。

恨みのタコ焼き

 某チェーン店のたこ焼きに、大阪出身の私と甥っ子たちは深い怨嗟の念を抱いています。旨いか不味いかの問題ではなく、大阪本来のたこ焼きではない代物が「たこ焼き」を騙ることが断じて許せないのです。甥っ子たちは私に、「あのたこ焼きもどきは、ほんま腹立つわ。首都圏で『大蛸平八郎』の乱を起こして、あのチェーン店を焼き討ちしよう」と過激なことを私に提案します。「じゃ、同志を募って一斉蜂起しよう」と応じました(笑)
 なお、ノーマライゼーションを体現していないたこ焼きは「たこ焼きにあらず」については2008年9月18日のブログを参照してください。