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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。
さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

子育て罰と親ガチャ


 先日、ゼミで学生たちと貧困と虐待について議論していると、「子育て罰」と「親ガチャ」という言葉がキーワードになりました。

 「子育て罰」(末冨芳/桜井啓太著『子育て罰-親子に冷たい日本を変えるには』、光文社新書、2021年)とは、子育ては「自己責任」であるとして、社会のあらゆる場面で子育てすることそのものに罰を与えて親子を苦しめるような政治・制度・社会慣行・人々の意識のことです。

 「親ガチャ」とは、子どもは親を選べず、人生は生まれ落ちた家庭次第で決まってしまうという現実と人生観を表す言葉です。硬貨を入れてレバーを回しカプセルに入った玩具が無作為に出てくる「ガチャガチャ」や、ネットゲームで有料・無料のポイント等に応じてゲーム内アイテムをランダムにゲットする「ガチャ」など、願いの叶うようないいモノはなかなか入手できない事態から転じた表現です。

 「子ガチャ」という言葉まであります。資質や能力の高い子どもを親が選べるわけではなく、往々にしてガッカリする結果になりがちであることを意味するそうです。

 これらの用語が広く話題になるのは、現代の家庭と親子がいかに寒々とした情景にあるのかを提示しています。親も子も、beingではなくhavingに還元されています。

 子育てに係わる営みのすべてに自己責任を貫こうとする子育て支援策は、保育所といい、児童扶養手当といい、OECDの主要先進国の中でも、わが国の政策内容の貧しさをもはや覆い隠すことができなくなっています。

 いずれ、「介護罰」という言葉も広まるのではないでしょうか。介護を自己責任として、介護を営むこと自体に罰を与えて家族と介護者を苦しめるような政治・制度・社会慣行・人々の意識のことです。

 「ヤングケアラー」はその端的な例証です。親やきょうだいの介護は、家族で責任を持たなければならないのだから、子どもは通学や進学をあきらめてまで、家族に対する介護の責任を果たさなければならない。まさに「介護罰」といっていい。

 このようなヤングケアラーの実態さえ調査しようとしない自治体、事態をヤングケアラーの「孤立」問題に還元して相談につなげるだけの「支援」がまかり通っています。子どもたちには自らの教育権や幸福追求権を犠牲にして、親やきょうだいの介護をしなければならない義務はないのですから、政府と社会が責任をもって家族に介護サービスをただちに届けるべきなのです。支援の本体は、公的な介護サービスの提供でなければならない。

 現代家族のほとんどは、地域社会に親族ネットワークもなければ、関心を向け合う近隣ネットワークもない核家族ですから、子育てや介護の営みには公助を基軸に据えた支えにしなければ持ちこたえることはできません。

 ところが、まず「自助」とくる。そして、イチジクの葉のように、日本型福祉社会論や「新しい公共」によって、恰も地域社会の支え合いに期待できるかのような幻想も振りまかれてきました。そうして、行き着いたところは結局「子育て罰」という現実です。

 妊娠すると職場からハラスメントや自主退職の圧力に直面する、公共の場で赤ちゃんがぐずると親をなじるような視線が集まる、保育所にはなかなか入れない、街中や電車・バスの中でベビーカーがジャマだと言われる、子どもを大学まで行かせるには巨額の費用がかかる…。

 なんて残酷な社会なのでしょうか。新自由主義にもとづく自己責任原理の行き着いたところにある生活・人生の格差と残酷さは、差別と排除にも現れます。

 「生活保護の人を食べさせるなら猫を救うべきだ」「意思疎通が図れないような障害者は抹殺すべきだ」「高額な医療費のかかる難病者に税金を使う必要はない」というような発言が、インターネット上に氾濫しています。他者の生を切り捨ててしまう態度が恐ろしく拡がっているのです。

 このような他者を切って捨ててしまう態度の背後には、「頑張れば成功できる」「働いても貧しいのは努力が足りないから」とする強迫的な自己責任原理が据わっています。

 ところが、格差は拡大し続けてきたのです。それぞれの家族の所得、資産、文化資本、ソーシャル・キャピタルのすべての面について、貧富の格差が拡大してきました。

 親ガチャには、子どもは親を選べず、こんな貧しく教養もない親の下に生まれたのだから、自分も貧しい人生を送らざるを得ないという、ある種の諦観が漂っています。親に規定された人生にとどまらず、自分らしさを実現する人生の構想を作ることができないまま、宿命論に陥っているのです。

 このような「諦観の漂う宿命論」の本体は、ダブルバインドです。一方では、政府と社会の支配的価値観に従って「頑張れば成功できる」と強迫的に吹き込まれ、他方では、生まれ落ちた家庭の貧しい現実から頑張るための環境や条件はない。ここで心身の動きが取れなくなるのです。

 寒々とした社会現実と家族の中で心身の動きの取れない人たちが産出される現実は、「不登校」や「社会的引きこもり」の増大にみてとることができるでしょう。

 「親ガチャ」「子ガチャ」は、残酷な暮らしに追い込まれがちな家族に、新自由主義的な価値を覆いかぶせることによって、家族が息苦しくなり、親密圏を窒息させる事態を提示しています。

 このようにみてくると、「子育て罰」「親ガチャ」「子ガチャ」という寒々とした社会現実と家族の下で、民衆が残酷な事態を作り変える可能性やオールタナティヴへの展望を拓くことはこれまでになく難しくなっているのではないでしょうか。

 心身の動きの取れない状況は、事態の改善に向けた構想力を封じてしまうところにつながっているのです。ここに、現在の民衆的な心象風景の特徴があるように思います。

 経済的には大失敗を続けている新自由主義が生き延び続けているのは、新自由主義が民衆の「想像力を封じること」に成功しているからだとする主張(酒井隆史「反平等という想念」、雑誌『世界』2021年11月号、110-121頁、岩波書店)にまったく同感です。

 「子育て罰」「親ガチャ」「子ガチャ」の表す家族では、息苦しさから親子の親密さを引き裂き、自分の希望にそぐわない親や子への見限りを強めます。ここに、今日の家族内部の暴力・ネグレクトの発生要因を産出する「呪われたご神体」があります。

鳥居観音の紅葉

 厳しい社会現実についてあれこれ考えていると、耐え難い気持ちになるときがあります。心安らぐ光景に触れたくなり、飯能市の名栗渓谷にある鳥居観音を訪ねました。見事な紅葉は心の濁りを晴らしてくれます。