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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

母子惑星を周回する父衛星


 障害のある子どもを育てる親御さんを対象とする「虐待防止研修」をお引き受けすることが、これまでしばしばありました。

 「施設従事者等」の虐待防止研修とは異なり、「虐待」という単語を使うことなく、「子育ての難しさを抱え込まない」手立てや工夫を中心に話を進めることにしてきました。

 1回あたりの参加者数は、だいたい50~100人で、「母親」ばかりです。私の記憶に誤りがなければ、参加した父親は延べ人数で1人か2人。3人には届かなかった。

 現在でも子育ての担い手は、母親に偏位しています。一部の例外はともかく、父母はともに「親になる」のですが、日常的に「親をする」のは母親だけ。

 それが、障害のある子の子育てとなると、「親をする」のは圧倒的に母親の役割。出産から乳幼児期のステージに障害の告知を受けとめて、医療的なケアや療育活動への参加など、通常の子育てよりも大きな親の負担は、もっぱら母親が背負うことになりがちです。

 結婚当初や出産時には、「子育てを一緒にしよう」とか「子育ての苦労を分かち合おう」と夫は話していたはず。ところが、三十路を過ぎ、四十路に入ると仕事上の責任の大きさや多忙さを理由に、夫は「母子惑星」から距離を置いて周回する「衛星」になっている(「母子惑星」を「地球」に、「父衛星」を「月」に例えてイメージしてください)。

 夫は、日常的な子育てで「親をする」ことはなく、「いざというときに、父親としての本領を発揮する」と、「男は仕事」「女は家事・育児」という性別役割分業を正当化する。こともあろうに、障害のある子どもの子育てには「手がかかる」という現実をテコに、子育て体制には家父長制的家族構造が採用されるのです。

 「母子惑星」から遠く離れた距離で周回軌道を回っているだけならともかく、場合によっては、「周回軌道から外れて、どこにいるのか分からなくなっていることさえある」と私が研修で話すと、母親の皆さんから満場の拍手が起きます。

 この話を進めるときのスライドには、「母子惑星」を「周回する父衛星」を図示しています。研修参加者の母親からは、「今日帰宅したら、このスライドを冷蔵庫に貼って、毎日夫が見なければならないようにしてやる」という母親の息巻く声をたくさん戴きました。

 それでも、このような研修に参加するお母さんの大部分は、障害のある子どもを育てる親同士のつながりを持ち、多様な支援者を含めた地域の支援ネットワークを活用できる人たちが多いでしょう。

 ところが、地域のネットワークからは孤立したまま、家族の中でも孤立して、二重の孤立の下でより大きな困難を子育てに抱えているお母さんたちもいるのです。

 親族ネットワークから遠く離れた地域で子育てを営み始める家族の多い首都圏は、特に要注意です。障害のある子の小学校への入学を契機に、就学前のステージでの孤立が特別支援教育の先生方よって初めて発見されるケースは珍しくありません。

 今日の子育ては地域・家族共同体の中で営まれるものではありません。現代核家族の「育児」は、男から父親へ、女から母親へと変わりゆく「育自」を伴ってはじめて成立する営みです。つまり、「育児は育自」です。

 ここで後者の「育自」が「親になる」と「親をする」の分岐点となります。

 子どもを授かった時点で「すでに出来上がった父親や母親」は存在しません。授乳、おしめ替え、夜泣きへの対応等々を重ねる子どもとの相互作用の中で、親としての望ましいあり方を探りながら自らを育んでいくのです。

 学校の成績や職場の成果を着実に上げるためには、見通しのある計画的な取り組みが必要不可欠です。ところが、このような優等生的アプローチは子育てには丸で役に立ちません。成果主義で競争させれば「できる親」が増える何てことも、絶対にありません。

 常に、予想外のことが起こり、親の思い通りに事は運ばない、自分を二の次にして我慢しなければならない毎日が続き、土日祝・盆・正月の休みが子育てに訪れることもありません。年中無休の営みです。

 だから、子育ては「子どもを育む」一方通行ではなく、「親としての自分を育む」こととの相互作用によってはじめて成立する営みです。

 ここで、障害のある子の場合、親子の相互作用には通常とは異なる難しさが生じやすい。アイコンタクトが取れない、親の働きかけになかなか笑顔で応えてくれないなどの応答循環の脆弱さは、子どもとの相互関係を確かめながら親が自分を育んでいく営みに、不安と動揺を惹き起こし易いのです。

 しかも、医療機関への通院に「早期療育」の取り組みが始まると、子育ては母親の専業へと移行する。母親は、退職又は短時間就労による非正規雇用化を強いられ、職業人としての希望を断念するか、M型就労による大きな制約を覚悟せざるを得なくなります。

 このような子育ての初期段階に母親が直面する試練は、まことに大きい。

 まず、障害のある子どもの養育役割に母親が専念しなければならない事実は、職業人としての社会的役割や個人としての自己実現を剥奪されることに直結しています。そこで、母親のアイデンティティには亀裂が生じ、傷つきやすい状況に追い込まれます。

 次に、母親は仕事を辞めて子育てに専念するようになったのだから、周囲から「完成度の高い母親役割」が求められる、または求められていることへのプレッシャーを強く感じるようになります。それは単純なストレスではありません。

 障害のある子どもを前に「育児と育自」が同時並行して進みにくい客観条件がある中で、自分が親として育ち切れていないのに、ちゃんとした母親であることが求められる。いうなら、親であることに「背伸び」することを余儀なくされているのです。

 傷つきやすい状況に追い込まれ、親にふさわしい「育自」が進まず、親になり切れないもどかしさを感じてしまう。親になり切れない自身のメンタリティに「幼児性」や「子ども性」を宿している場合、自分とわが子のニーズを満たすことの間に対立や葛藤が生まれ、そのことが不適切な養育や虐待に発展することがあります。

 さらに、「子育ての終結」が見えてこない問題に直面します。子どもの学校卒業後の就職や地域生活における自立が課題として迫ってくるステージに入ると、「親役割」の「引き延ばし」を強いられます。

 公的支援の不十分さを実感し、個人的な努力の限界や無力感にも苛まされながら、わが子のために自分のできることはやり切ろうと決断したのだから、職業人としての希望や個人としての自己実現は断念し、生涯「親であること」に頑張ってきた…。

 障害のある子どもが成年に達しても、障害者支援施設や事業所の運営において「親権のなくなった親」に「親であること」の役割を求める不見識がまかり通っています。このような「親・家族の巻き込み」は、障害のあるご家族への人権侵害になりうる問題をはらんでいるという点について、あまりにも無頓着なのではないでしょうか。

 公的サービスの不十分さに対する「怒り」から始まって、女性として、職業人として、個人としての自己実現を断念し、思うようには事が運ばない自らの「無力感」に苛まされ、溜まり切った「怨嗟の念」はどこにも発散することもできず、複雑な価値倒錯を経てルサンチマンが澱のように沈殿している。

 このような成り行きは、例外的に生起するのではなく、少なくともわが国においては法則的に産出され続けているとみるべきです。とくに、障害のある子どもを抱える母親の一定層は、ルサンチマンに陥るリスクを宿命づけられているといっていいのです。

 様々な大会や法人・事業者の行事で引っ張り出される、障害のある子を育ててきた親御さんの「何だか美しい話」があります。

 世間一般で重要視されている個人としての自由・歓喜・幸福といった価値は実は「空虚」なのであって、障害のある子どもを授かってこそ得た「共に生きる」というかけがえのない価値にこそ真実があるのだ、と。

 個人の自由と尊厳を素通りしたところに「共に生きる」世界が実現するのでしょうか。このようなプロットの本質に、「酸っぱい葡萄」(5月29日ブログ参照)型の価値倒錯によるルサンチマンが潜んでいる問題性と、このようなルサンチマンが果たす社会的機能に注意を向けるべきです。

 公的サービスの貧しさに由来する社会的抑圧が、最終的には個人の「美しい生き方」に帰結するという筋書きの成立は、公的主体の責任を無罪放免へと導く社会構造を産出し続けているのです。

 さらに、親の個人としての自己実現の断念から出発した子育てのストーリーは、親・きょうだいのルサンチマンを形成し、実は、支援者のルサンチマンとも共鳴し合って、障害のある当事者の人権侵害を産み出しているのではないか。次回は、この点について考えます。

信楽焼の狸

 用事で日本橋に立ち寄ると、滋賀県のアンテナショップがあり信楽焼の狸が出迎えてくれました。この狸は「八相縁起」(https://www.e-shigaraki.org/knowledge/)もので、福祉ビジネスでひと山当てたい方には施設・事業所の入口に置くべき必須アイテムです。狸の笑顔=愛想よく、笠=不慮の災難を避ける備え、大きな目=周囲への気配りと正しい判断、大きなお腹=冷静さと大胆さを持つ、徳利=仁徳をそなえる、通い帳=信用第一の帳簿管理、太い尻尾=何事もしっかりと終結させる、金袋=最後は何といっても金運でっせ!!