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福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。


●インタビュー大募集
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花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第57回①
NPO法人ピアサポートネットしぶや 理事長 相川良子さん
校長になって一番の大仕事は、子どもたちが
自由に気軽にくつろげる居場所づくり

NPO法人ピアサポートネットしぶや
理事長 相川良子さん
1936年生まれ。東京学芸大学を卒業後、1958年より中学校の社会科教師を務める。1980〜90年代に渋谷区の中学校に赴任し、教頭と校長を経て、社会教育に関わる。2009年にピアサポートネットしぶやを設立。不登校やひきこもりなどの子どもや若者の自立支援をおこなっている。

 取材・文 毛利マスミ

――1990年代から約30年にわたり、子どもたちの居場所づくりを続けてらっしゃいます。なぜ、居場所づくりを始めたのか教えてください。

 そもそも私は、渋谷区の中学校の社会科教師だったんです。最後の6年は教頭から校長になり、定年まで務め上げました。
 1990年代に、私が校長になって最初に考えたことは、「子どもたちの居場所をつくろう」ということでした。私が教員をしていた1970〜80年代は、いわゆる「荒れる学校」が社会問題になった時代でした。校内暴力ですね。60年代に起こった学生運動など自分を守るために体制に向き合うといった運動が、東大紛争やあさま山荘事件などを経て終息。1970年代は、日本が高度経済成長で沸く一方、2度のオイルショックなどで翳りも迎えるという時代でした。
 そして70年代後半になると、「よい偏差値を取ればよい高校に行かれる」という価値観のなかで、校内暴力が頻発するようになり、80年代には、一層激しさを増した校内暴力を「鎮圧する」というかたちでの、学校の管理体制が強まっていきました。そして、その過程で生まれてきたのが「登校拒否」で、今でいう「不登校」の子どもたちです。
 その頃から私は、学校は「義務教育」を掲げながらも、すべての子どもの教育を保障していない、学校というシステムが子どもたちに合わなくなってきたと、肌で感じるようになりました。学びの場は多様でなければ、必ず隙間やほころびができます。

 私が校長を務めていた90年代は「居場所ブーム」ではないですが、増えゆく不登校の子どもたちを支える場としての居場所づくりが、社会的にも広がった時期でした。また荒れた学校の延長で、少年犯罪が社会問題にもなっていた時代でもありました。最近、「少年A」の裁判記録廃棄がニュースになりましたが、この神戸児童連続殺傷事件が起きたのも90年代です。今、盛んに語られている少子化対策のように、子どもたちの放課後をいかに保障するかが語られるようになり、当時の文科省が居場所づくりに助成金を出すという流れから、第一次居場所ブームとして立ち上がっていきました。

 そして私も、そうした活動に関わっていくなかで、私のホームグラウンドでもある渋谷でも居場所づくりを始めようと思ったんです。私が校長をしていた中学校は合併を控えた小規模校でしたので、地域から「子どもがいなくなる」「学校が消える」といった流れも合わせて、このままでは子どもが地域から「こぼれていってしまう」という危機感のようなものもありました。
 私は校長を務めておりましたので PTA とのつながりもあり、地域に「歩きや自転車で気軽に行くことができる、学校ではない場所をつくりませんか」と呼びかけたんです。そうしたら、皆さんが「おもしろそう」と賛同してくださり、1999年には渋谷区上原社会教育館で「中高生クラブ」を開講。その後さらに、それぞれの中学校区で「自分たちの町のなかに、自分たちでつくる子どもの居場所」が立ち上がりました。これが、今も続く子どもたちが自由に気軽にくつろげる居場所、渋谷ファンインの礎です。

――来年には米寿を迎える相川さん。今なお現役で、子どもたちのための居場所づくりに奔走されていらっしゃいます。その原動力はどこからくるのでしょうか。

 私は学校が大好きだったんです。学校って、おもしろいじゃない? 友だちがいるし、勉強もそこそこ楽しいし、先生も大好きだったし。小学校も中学校も大学もみんな楽しかった。だからもう、絶対教員になろうって、中学生ぐらいから決めていました。
 私の家には戦後の食糧難の時期に、10歳離れた兄の友人がたくさん泊まりに来ていたんです。それと、もう一人の兄が経営していた作業場も近かったので、作業員の人と出会うこともありました。そうしたごちゃごちゃと色んな人たちと過ごしたことで、たくさんの知識をもらったんです。その後大学を卒業して、1950年代に教員生活をスタートさせました。

 私が思春期を迎えた頃は、戦後の教育改革による戦後民主主義教育が進められた時代でした。新しい憲法の話や個の尊重ということをしっかりと教わったんです。これまでは、国家が主体だったけど、これからは個。それが民主主義だとしっかりと勉強をしたんです。これがすごく大きかったです。合わせて、戦後民主主義教育の実践記録である無着成恭の『やまびこ学校』がベストセラーになったり、「書くこと」を通して自分のことばで表現する「生活綴方運動」が復活したり、子どもが「子どもとして生きる」ということが、社会運動としてあったんです。こうした影響を受けて教員になったものの、私が晴れて教員になった頃から徐々に学校の子どもに対する管理体制が強まり、子どもをマス=集団としてとらえる考え方がどんどん広まっていきました。
 私は、みんなで「一枚岩になってやっていくぞ!」みたいなのが一番苦手。定年間際ではありましたが、校長になってその権限で散々やりたいようにやらせてもらって、究極、子どもが自由にのびのび生きるためにどうするのが一番いいのか、ということで居場所づくりに入っていったということです。

――ありがとうございました。次回は渋谷ファンインの活動とピアサポートネットしぶやの役割についておうかがいします。

ピアサポートネットしぶやでは、ひきこもりや生きづらさを抱える子どもたちに寄り添うと共に、ご家族の個別相談や家族支援交流会などを開いてサポートを行なっている。