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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

学びの主体性

 明けましておめでとうございます。
 川越喜多院の初大師は大変な賑いでした。

喜多院の初大師

 毎年のお正月に感じる「めでたさ」は薄く、俗物の国外逃亡事件や某国の司令官暗殺事件など、まるでスパイ映画のような事件が相次いでいます。このような事案が、今年を象徴しないことを祈るばかりです。

 さて、平成の30年余りの間に書店の数は半分くらい(あるいはそれ以上か?)に減少しました。書店数の減少は、当初、小規模な「街角の本屋さん」から始まりましたが、近年は、都市部の大規模店舗がどんどん閉店しているところに特徴があります。

 本を探すために大きな書店に立ち寄ろうとすると、すでに無くなっていて愕然とする経験を重ねました。

 全国にチェーン展開する書籍販売とCD・DVDレンタルの書店は、カフェや雑貨を組み合わせて業態そのもののリニューアルを図りながら、店舗の選択と集中を図っています。ここは以前から売れ筋以外の書籍は置かないところですから、私にはあまり関係ありません。

 このような中で、福祉・介護に関する本は、制度改正に伴う事業者ハンドブックや資格関連もの以外は書店でほとんど見かけなくなりました。

 理論書などの研究や主体的な学びに役立つ書籍は、都市部の大規模店舗に足を運んでもなかなか見つけることが難しくなっています。とくに、原論書は絶滅種(絶滅危惧種の段階をすでに越えました)です。

 福祉・介護に関する「知」のあり方は、「これだけは最低限理解していなければならない」「このようなスキルを獲得していることが法制度上、最低限求められる」という定量的な技術・知識だけの世界になっています。

 高校生向けと思われる福祉・介護の仕事の紹介本などは、残念ながら読まない方がいい。書き手に福祉・介護の本質に係る理解がないためでしょうか、中身が薄っぺらく読むに堪えません(市販されている類書をできる限り集めて検討した私の率直な見解です)。

 アマゾン等のインターネットによる販売でも、資格ものとハウ・ツーものが福祉・介護の圧倒的な売れ筋のようです。「自ら立てた問い」を解くために本を探して読むような人は滅多にいない。学生のほとんどは基本的に、本を買わない、読まない、探し方も知らない…。

 このままでは、出版社の人間の中にも、「本の作り方が分からない」「売り方を知らない」人が出てくるのではないかとさえ懸念します。「知」のあり方はどうでもよくて、売れさえすればいいとなる。

 資格ものやハウ・ツーものは定量的な技術・知識であり、「主体的な問い」を原理原則に据える「学び」とは根本的に異なります。「真の技術・知識は定量的なものではない」ことが学問と専門性に関する議論の出発点です。

 ひょっとすると、この点についてさえ、「学ぶ側」も「本を作る側」もすでに区別がつかなくなくなっているのかも知れません。

 自動販売機に120円入れてボタンを押したら缶コーヒーが出てくるのと同じように、2,000円を入れて資格に必要な一つの省令科目のボタンを押せば、その科目の必要十分な知識が出てくるものと考えてしまう。

 それが現代の「知」のあり方のスタンダードになっているとすれば、「学ぶ営み」とは埋めようのないギャップがあると受け止めるべきです。

「主体的な問い」が土台に据わる「学び」が希薄なことは、専門性がないことの証左です。ところが、「資格があれば専門性がある」と誤解している輩が、ごまんといるのではありませんか?

 医師資格のある者の中に「やぶ医者」がおり、教員免許状を持つ者に「へぼ教師」がいるくらいは常識でしょ。福祉の有資格者にも「役立たず」は普通にいます。

 内田樹さんの『先生はえらい』(ちくまプリマー新書、2005年)は、この辺りの問題点を端的に指摘しています。

 対人支援の知見・技術には無限のステージがあって、誰しも完璧な知見・技術に到達することはない-このことを自覚している人だけが、真の専門性を持つプロです。

 ところが、福祉や教育の世界では、たかだか何年か何十年程度の現場経験を持つ「自分の到達点」から「若い人たちを育てたい」と言い出す「先生」が現れます。この能天気なおこがましさは、一体何に由来するのでしょうか?

 せいぜい「自分の複製」もどきを作ることはできるかも知れませんが、対人支援の新たな地平を切り拓く「真の専門性を持つプロ」を育てることはありません。定量的な知見・技術を伝えることは、マニュアルさえ作れば誰にだってできることですから、「先生」なんていらないのです。

 福祉・介護の世界が、経営と定量的な知見・技術から枠づけられるようになった平成の30年余りの帰結が、福祉・介護の新たな地平を切り拓くための人材養成を大学から遠ざけ、そのための書籍についても出版社と書店から駆逐していくようになっているのです。

 この問題の所在は、福祉・介護の待遇の低さに還元できるものではなく、大学人と出版人が引き受けるべき社会的責任です。

 このような傾向は、福祉・介護の世界だけでなく、医療・保健・教育・法曹などのあらゆる分野に共通する現象ではないでしょうか。これこそが「反知性主義」を育む土壌をなしていると考えています。

大阪天王寺にある一心寺のお骨仏

 この暮れは、父親の一周忌に当たり、納骨した大阪の一心寺にお参りしました。この寺は、歴史的に著名な人のお墓がある一方で、お墓を自前で作ることの難しい庶民の納骨については、10年単位で集約してお骨仏を造ってきました。阿弥陀如来のお骨仏です。

 川越の神社・仏閣は金儲けへの精進には目を見張るものがありますが、地域社会や民衆のための課題意識を感じることはまったくありません。

一心寺の新しい黒門

 一心寺は明治20(1887)年からお骨仏造りがはじまり、以来130年余りの間に200万人分のお骨から造られた阿弥陀様がいます(空襲で無くなってしまったお骨仏もあります)。納骨冥加料は1~3万円です。境内には落語や芝居の拠点となるシアターもあります。これこそ大阪の誇るべき文化です。