メニュー(閉じる)
閉じる

ここから本文です

宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

ケアを破壊に追いやった「ニード=サービス論」


 前回ブログのおさらいをはじめにしておきます。三浦文夫さんは、ティトマスの行政管理学研究(social administration)から「贈与関係論」と「社会市場」の魂を抜き去り、福祉国家型福祉を多元的福祉システムに転換するための「経済市場」にもとづく「ニード=サービス論」へと捻じ曲げていきました。

 この福祉多元主義システムは、プロセスとしてのケアを、さまざな「ニード」に断片化し、多元的なサービス(民間営利、民間非営利、家族・近隣、政府)に腑分けした型の社会福祉政策に枠づけます。

 「市場福祉」の導入、社会福祉法人の企業的経営への傾斜、家族と地域社会による支援の幻想等はすべて、ケアを「ニード=サービス」に切り刻んで政策的に上から枠づけてしまうことから生じます。

 「ニード=サービス論」は、政策形成のための技術的操作的概念にとどまることなく、ケアを切り刻む実体概念に転化していくのです。

 この「ニード=サービス論」にもとづく「社会福祉経営論」(三浦文夫著『[増補改訂]社会福祉政策研究-福祉政策と福祉改革』、1995年、全国社会福祉協議会)の成れの果ての一端は、小島美里さんの「訪問ヘルパーがいなくなる―問題だらけの介護保険」(雑誌『世界』第976号、98-105頁、2023年12月、岩波書店)に示されています。

 小島さんの論稿の一部を要約して紹介します。

 現行の訪問介護は、訪問先への移動時間を勤務時間と認めず(報酬対象としない)、家事を提供する生活援助は、「主婦なら誰でもできる」と介護報酬を安く設定する。利用者の家ごとに異なるモノの置き場所、家事へのこだわり等を理解して、短時間で生活を支えるのは「プロの技」ではないのか。

 「要支援」は「要介護」より介護報酬を低く設定するから、小規模な訪問介護の事業所の閉鎖・倒産が相次ぐ中で、事業継続のためには「要支援」よりも「介護度の高い利用申し込み」を優先せざるを得なくなる。

 では、「要支援」の人たちは軽くて介護サービスはさほどいらないのかと言うと、そうではない。「90度に曲がった背中で持病も多数ある90歳を超えた人がずっと要支援2」、「大腿骨頸部骨折で入院、その後リハビリ施設を経て在宅に戻った一人暮らしの90歳の女性は要支援2」。

 「せめて、買い物と床掃除を頼みたいとヘルパー利用を申し込んだが、『要支援の人に行くヘルパーはいない』と断られたそうだ」と。

 それでも、2024年度からの介護報酬の改訂では、全体として1.59%のアップであるにも拘らず、訪問介護サービスは減額されるのです。小島さんは記者会見で、今回の報酬減額について「在宅介護の終わりのはじまり」と強い危機感を表明しました(朝日新聞デジタル)。

 訪問介護の報酬減額の根拠について、厚労省は訪問介護サービスの利益率が高いからだと説明します。しかし、そのようになるからくりは、サ高住を回ることに集中した訪問介護を提供する事業者が、移動時間がかからないために利益率が高くなるだけのことです。要介護度の高低に拘わらず、こまめに地域を走り回って対応しようと努力してきたヘルパーとその事業所は一向に報われません。

 小島さんの指摘にある、「家事等の生活支援」を「主婦なら誰でもできる」と位置づけたのは、三浦さんが中心となって編集した『在宅福祉サービスの戦略』(全国社会福祉協議会、1979年)です。障害領域のグループホームの世話人を「普通のおばさん」でいい(浅野史郎著『豊かな福祉社会への助走』、116頁、ぶどう社、1989年)と位置づけたのも、三浦さんの『在宅福祉サービスの戦略』によるものです。

 障害領域のグループホーム(居宅介護)は、専門性のある支援を制度上位置づけてきませんでした。にもかかわらず、「強度行動障害」のある人を含めた「地域生活移行」にも活用できる有力な資源であるとの幻想をふりまく「有識者」がいます。

 このグループホームは放課後等デイサービスとともに、福祉多元主義の進展から営利セクターの参入が増加し、支援者による障害者虐待があからさまに増大しているのです。福祉多元主義がケアを破壊している例証といっていい。

 小島さんの指摘する訪問介護をめぐる問題は、介護保険制度が21世紀のケアを崩壊させてきた事実を偽りなく報告したものです。「介護保険があって、ケアはない」という「介護保険の荒野」が広がっています。

 三浦さんの「ニード=サービス論」に対する有意義で理論的な批判は、すでに垣内国光さんの論文「臨調行政改革と保育見直し論:三浦文夫氏の諸説に寄せて」(雑誌『社会福祉学』24巻1号、87-116頁、1983年、社会福祉学会、なおhttps://x.gd/1uMKGからダウンロードできます)や岩田正美さんのもの(確か松村祥子・岩田正美・宮本みち子著『現代生活論』、有斐閣、1988年の中にあると思います、今、手元にないので…)があります。

 自治体直営の多かった保育所は、「ニード=サービス論」にもとづく都市経営論によって民営化と市場サービスの導入を進めました。そうして、子育て困難が否応なく高まり、2023年の出生数は過去最少の75.8万人にまで落ち込んでいます(厚労省2023年人口動態調査(速報)、2月27日公表)。

 この悲惨なわが国の現実は、垣内さんの論文を今読み返してみると、保育所を十分に拡充せず、女性に偏った子育て負担を強いてきた帰結に過ぎないことがよく分かります。

 それでも、資格養成のテキストの中では、三浦さんの「ニード論」「ニード=サービス論」や「社会福祉政策論(社会福祉経営論)」を大きな理論的功績として紹介しています。

 虐待発生が止まない営利セクターのグループホームや放課後等デイサービスを増加させ、「介護保険の荒野」を広げていく福祉多元主義的システムの中で、あるいは、そのシステムを機能させるために、社会福祉士、介護福祉士、精神保健福祉士、および多様な基礎資格の上に載せる介護支援専門員が働いている現実をどのように説明するのですか。

 もはや、若者の資格離れが止まらなくなっているというのに。

 アネマリー・モル(アネマリー・モル著『ケアのロジック-選択は患者のためになるか』、2020年、水声社)は、福祉多元主義の下で利用者が選択するロジックとケアのロジックとの明白な違いを指摘しています。

 「あらゆる種類のものは市場で取引される。機器、技術指導、あるいは親切や配慮でさえも」。しかし、消費者の選択のためには「売り出されているものとそうでないものは特定されていなければならない」のだから、「市場は線を引いている」。

 「ケアはプロセスであり、明確な境界を持たない。ケアは開かれている。…(中略)…ケアとは、複数の手が一つの結果のために(長い時間をかけて)ともに働くことなのだ。ケアは(価格に対する製品のように)交換される何かではなく、(進行中のプロセスにおいて)行為が行き来するなかでの相互作用なのだ」と(モル前掲書、58頁)。

 このようなケアの根源には、「『居る』を支えるケア」として、「すべての人の尊厳と存在を肯定する営み」があります。

 村上靖彦さんは『ケアとは何か―看護・福祉で大切なこと』(中公新書、2021年)の中で、それぞれの人が幸福追求を願う手前に、「存在を支えるためのケア」がなければならないことを指摘します。「これは『生を肯定する』というケアの働きの土台である」と(村上前掲書、106頁)。

 そして、認知症のケアに由来する「ユマニチュード」と乳幼児のケアに係わるドナルド・ウィニコット(イギリスの精神科医)の「ホールディング」にもとづいて、「存在を支えるためのケア」とは何かを考察します。

 まず、ユマニチュードの「存在のケア」に関する主張(本田美和子他著『ユマニチュード入門』、35-36頁、医学書院、2014年)は、次のようです。

 「母親から生まれた人間は、まず生物学的な第1の誕生を経験しています。そして人生の最初の他者である母親から、人としての眼差しを受け、声をかけられ、優しく触られ、適切な世話を受けることによって、自分と社会とのつながりを感覚として受け取り、その後、きょうだいや隣人など多くの他者の中で成長していきます。」

 「周りの人から眼差しを受けること、言葉をかけられること、触られることが希薄になると、周囲との人間的存在に関する絆が弱まり、“人間として扱われているという感覚”を失ってしまうおそれがあります。」

 このようにしてユマニチュードは、「眼差し、声かけ、そして優しく触られることをケアの出発点に置く」(村上前掲書、108頁)ことによって、尊厳の核にある、人間として扱われているという「存在の感覚」を守り育むのです。

 次に、ドナルド・ウィニコットのホールディングについてです。彼は、乳児の「『存在する』という感覚が乳児期の母子関係(あるいは養育者との関係)によって生まれる」(村上前掲書109頁)と考察します。

 ウィニコットの「ホールディング」は「抱っこ」に由来する用語ですが、「あかちゃんをきれいにし、授乳し、暖かく快適な環境を維持し、騒音や不快な刺激から守る―これら一連の身体的ケアや環境整備もホールディングに含まれる」のです。

 「乳児が親の顔をみつめるとき、親は子どもの様子に応じた表情と声かけをするだろう。泣いているときにはあやし、笑っているときには微笑み返す。『親がどのような表情をしているか』は『親が何を子どもの様子に見て取っているか』を反映している」(前掲書110頁)。

 そして、子どもは親が反応を返してくれることの中に「私はここにいる」という現実感を得るのです。

 このようにみてくると、わが国の介護保険サービスが、身体介護と家事支援を機械的に区別する点は、ケアの根源を破壊する仕組みであることが分かります。「一連の身体ケアと環境整備」はウィニコットのホールディングとして、一体のプロセスだからです。ケアとは何かを全く知らない人と組織が介護保険制度を設計し、管理運営しているのでしょう。

 また、「飲水のための水をコップについで摂水介助を行うことは訪問介護の業務として受けとめてもらえるが、花瓶の水を換えることはヘルパーの仕事でないと拒否される」という現実は、尊厳の核にある「人間として扱われているという存在の感覚」をズタズタに切り裂く残酷さを、「利用者」と「支援者」に制度から強いているのです。

 もちろん、本来のケアを守ろうと懸命に努力している支援者はいます。しかし、猫の目のように変わる報酬改定は、現場支援者の展望を不安定にし、ケアのあり方を深めようとする努力を常にへし折ります。赤字を出さないことを優先事項とさせるのですから。

 ケアを「ニード=サービス論」によって断片化したところに報酬改定は成立しています。報酬改定のシステムは、プロセスとしてのケアを常に破壊し続け、経済市場としての多元的福祉システムの持続可能性だけを追求しているといっていい。

 母親の体内から生れ出て以来、誰もが多くの他者に依存して生きるケアのプロセスにもとづいて、社会は成り立っています。特定の価値観から「自立している」とみなす状態を支援の目標に据えるのではなく、「ケアを必要とする依存者」と「ケアを提供する依存労働者」の親密な贈与関係の中で、それぞれの人の多様な存在が肯定される社会システムでなければならない。

 政策主体の側からニードを断片化してケアを破壊する仕組みは、根本的に誤っています。親密圏で営まれるプロセスとしてのケアの事実から、社会福祉政策を形作らなければならないのです。ここに、当事者・家族の参画の意義があるのです。

一面のホトケノザ

 植えつけ前の春の畑にホトケノザが咲き誇り、パープルの絨毯を敷きつめた穏やかさが広がっていました。ケアとは、人間としての存在と尊厳を守る穏やかな営みです。報酬改定で現場と支援者を振り回している限り、「日本型福祉荒野」だけが広がり、わが国がケアを取り戻す時は遠ざかるでしょう。