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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

ケアの破戒


 「教育は、子どもたちの未来をつくり、さらには社会の未来をつくっていく仕事」。この表現は、子どもを育む仕事に係わってよく耳にします。

 冒頭に引用した台詞は、求人情報サイトで、一橋大学イノベーション研究センター教授の米倉誠一郎さんが「日本の教育を変えるイノベーションの可能性」をテーマに論じた一節にあるものです(https://doda.jp/kyujin/education/)。

 米倉さんは冒頭で、わが国の教育の現状については釘を刺しています。

 「現在、対GDP比で見た教育支出はOECD平均を下回り、最低水準となっています。教育は、国の未来をつくっていくうえで、即効性のある方法ではなく、数十年経ってから効果が現れるようなもの。もしも今、未来への教育投資と熱意が失われてしまうようであれば、少子高齢化に直面する日本に大きな影響を与えることとなるでしょう」と。

 「教育は子どもと社会の未来を創る仕事」という台詞は、学校の教員や児童福祉の仕事の意義と魅力を語るサイトでよく登場しますし、私の勤めていた教育学部でも教職を目指す学生からしばしば耳にしました。

 しかし、このような子ども観と子どもに係わる仕事観は、「未来の人と社会をつくる」仕事の意義と重要性を強調することによって、「これまでの人=高齢者」に係わる仕事にお金をかけるのは無駄だという考え方に直結してしまいます。

 実際、多くの求人サイトで「人気のない仕事のワーストワン」に間違いなく登場するのは「介護」の仕事です。

 高齢者の介護に係わるコミュニティ・サイトでさえ、「生産性のない高齢者にお金をかけるのはムダ」だとする意見や、北欧でも「75歳以上で肺炎にかかった高齢者には抗生物質の投与等の医療措置はしません」(北欧でこのような事実はなく、ガセネタです)などの書き込みさえあります(https://job.minnanokaigo.com/community/post/C38181376/)。

 念のために付言しますが、北欧では、個々の高齢者が延命措置に関する意思表示を行い、ほぼすべての高齢者が無意味な延命措置を拒否します。しかし、感染症の治療に係わる年齢による差別はありません。また、ケアを受ける高齢者が、「馬が合わない」などの理由で担当の介護職の変更を要求した場合、施設・事業所はそれに応じます。

 このサイトを覗いてみると、よく登場するキーワードの一つが「生産性」であることに気づきます。「高齢者にはもはや生産性はない」ことを議論の起点に据えているものや、「介護保険制度によって、巨大な介護産業ができているのだから、生産性はある」と、高齢者が介護サービスの消費者であるところに「生産性への寄与」を認める意見もあります。

 それでも、高齢者のケアに係わる仕事に従事する人のサイトに、「生産性」をキーワードとするこのような意見が見受けられる事実は、広範囲の人が一般的に支持している本音を表わしていると理解していいでしょう。

 もちろん、「高齢者は私たちすべての人の未来の姿であり、そこに笑顔と幸福をつくる」ことは若い人たちに未来への希望をつくる仕事だという反論もサイトの中にあります。

 しかし、他のテーマのコミュニティを覗くと、「介護職の賃上げ、賃上げと何度も言われただけで、全部空振り」とか、正規雇用だと夜勤の続きで日勤を強いられ、それが「今週は3回もあった」という声があるなど、高齢者の「笑顔と幸福をつくる」にほど遠い支援現場の実態が語られています。

 介護保険制度の要介護度別のサービス利用時間の上限については、それぞれの要介護度の高齢者に、たとえば入浴介助をするのに必要な時間をストップウォッチで測定するなど、その他の介助場面すべての必要時間を秒単位ではじき出し、それらを合算して設定した経緯があったはずです。

 しかも、身体介護にかかわる報酬は高く認める一方で、家事支援に関する仕事は「非専門的ニーズに対応する非専門的サービス」と位置づけられて低い報酬にします。このような区別は、三浦文夫さんを中心に書かれた『在宅福祉サービスの戦略』(全国社会福祉協議会編、1979年)以来のものです。

 そうして、介護の仕事に係わるこのような時間と行為の枠づけから、飲み水をコップに汲んで飲水の介助をするのは介護の仕事であるが、花瓶の水を交換するのは介護の仕事から除外するという、「人たるに値する暮らしのニーズ」を認めようとしない、信じられない事態がまかり通るのです。

 子どもを育む営みには未来を創造する「生産性」がある、「もはや生産性のない」高齢者のケアにお金をかけるのはムダ、介護産業を支える点に高齢者の「生産性」はある、介護サービスの利用時間限度は秒単位で計測された介助行為の積算…。

 これらの議論には、コスパ・タイパの観点しかありません。要するに、ケアの議論ではない。ケアとは、マニュアルには必ずしも収まらない営みであり、コスパ・タイパで割り切れない別物です。

 私は、自分の子どもが中学を卒業するまで、子どもが帰宅する夕方頃には自宅に戻り、洗濯物の取入れや夕食の支度をする毎日を続けました。

 もし、コスパ・タイパの観点だけから育児を組み立てるとすれば、子どもが小学校の高学年になったら、家に子どもの夕食を用意して、親は外の職場で仕事をしていてもいいことになるのかも知れません。

 しかし、子どもが自宅に帰ったとき、「親がいる」という事実そのものが子どものケアであり、必要不可欠な営みだと私は考えてきました。

 夕食を作りながら、あるいは洗濯物をたたみながら、何気ない親子の会話がはじまり、学校での出来事や楽しいこと・困ったことの話題が登場する。その中で、子どもの成長・発達とともに変化する親の支え方のあり方や、思春期以降に必要となる親のフェードアウトを不断に考え、悩みながらケアを営む。

 このケアの営みは毎日のもので、土日にまとめて子どもと会話してできるという筋合いのものではありません。育児というケアは、日々の「今ここで」の持続的な暮らしを通じて、「ほかならぬ私とあなた」という代替不可能な親と子の関係性の中に、それぞれの「生と尊厳を守る」営みです。

 北欧の介護場面で、ケアを受ける高齢者から「馬の合わない介護の担当者を変えてほしい」と要望が出た場合に担当者の変更に応じるのは、「ほかならぬ私とあなた」という代替不可能な関係性においてはじめて成立するという「ケアの本質」に由来する判断なのです。決して、高齢者の「わがままを容認している」のではありません。

 また、この営みの分かち難さに注意を払うことなく、布団干しや洗濯は「非専門的ニーズにもとづく非専門的サービス」で、子どもを入浴させる必要時間を3歳児なら6分(体洗い2分、頭髪洗い3分、顔洗い1分の合計)とするのは、ケアの発想ではありません。

 つまり、ケアとは親密圏を形成して相互の「生と尊厳」を育み守る営みです。回り道が必要な関係性の場面を一切考慮することなく、秒単位や分単位の「介助行為」で刻み込む介護保険制度の基本は、ケアを否定したところに設計されているのです。

 たとえ、支援環境や待遇に問題があるとしても、有能なケアの担い手は、ケアを受ける人によって自分が支え返されている日々の実感を間違いなく抱いています。

 小学校の先生は、自分の教育の営みが子どもたちに支え返された毎日であることを、障害者支援施設や特別養護老人ホームの職員は、自分たちの支援の仕事が障害のある人や高齢者に支え返されて成り立っていることを、それぞれにかけがえのない手ごたえを感じとっているはずです。ここにケアの魂の灯があり、万人の生と尊厳を守る希望がある。

 しかし、わが国のケアの現実は、子どもから高齢者までコスパ・タイパの観点を貫いた制度設計をどんどん進め、ケア本来の魂を殺してきました。

 義務教育諸学校の先生を志望する学生や介護職を目指す若者の減少は、待遇が劣悪なことだけに起因するのではありません。わが国における教育・福祉の制度が、経済効率や合理性の観点からケアを切り刻み、親密圏においてはじめて成立するトータルなケアを断片化し、破壊してきたのです。

 福祉・介護の制度設計に財政効率や他の施策との整合性が問われることは言うまでもありません。しかし、その前提条件は、すべての人の生と尊厳を守る営みであるケアを担保する制度設計であることです。財政効率からケアを破壊する倒錯した制度設計に陥っているのではありませんか。

オオカマキリの卵

 庭の柚子の木を剪定していると、カマキリの卵をみつけました。この25年ほど、毎年、カマキリの卵が庭のどこかの枝に産みつけられてきました。カマキリの生と尊厳を守る生態系のつながりが、わが家の庭にあるのでしょう。