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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

意見表明や意思決定支援を阻むもの


 こども家庭庁の設置から、政府はようやく「子どもの声を施策に反映させる」取り組みを考え始めたようです。子どもの権利条約の批准から約30年もの歳月が流れています。

 国のこども家庭審議会のある委員の、「『意見がない』は思い込み、従わせていないか」という論調の記事が朝日新聞に掲載されました(10月21日朝日新聞朝刊)。この見解に、私はいささか違和感を覚えます。

 児童養護施設や肢体不自由児施設において、1970年代から子どもたちが施設運営に自分たちの声を反映させようとする努力は山のようにありました。ろう学校(現、特別支援学校)が児童生徒たちに禁じてきた手話を、学校内で使えるようにする意見表明とその実現に向けた子どもたちの取り組みもたくさんありました。

 私自身の生い立ちの中でも、学校その他の大人中心主義的な世界の下で、自身の意見表明を積極的に行ってきた記憶があります。

 幼稚園の時代に、一部の子どもが悪戯したのに「クラス全員の連帯責任だ」と下校時間を過ぎた居残りを強いられて、園長先生が説教を始めたとき、「私と〇〇君や〇〇さんたち…は何も悪さをしていないから、すぐに下校させてほしい」と強く抗議して、帰宅したこともあります。

 中学校時代に生徒会の役員をして校則廃止に向けた生徒たちの意見表明を集約し、ティーチ・インの取り組みを重ねて、校則廃止を実現したこともあります。

 高校時代に、学校の廊下を歩いていた時のことです。私の前を剣道部の先輩二人が横に並んで歩いており、向こう側から教頭先生が歩いて来ました。先輩二人は教頭先生を左右から挟み撃ちするように、肩をわざとゴンと当てたかと思うと、「教頭法制化法案反対!」と叫んで、振り向くこともなく悠然と前に歩いていきました。(注:当時の学校の管理職は校長だけでしたが、教頭も管理職にする法案が国会に上程されていました)

 このように、子どもと大人、児童生徒と教師というミクロ・ポリティクスの力関係の壁を越えて、自由に意見表明する日常生活世界はこれまでにあったのです。しかし、この数十年間を通じた社会システムによる「管理」の進展が、意見表明を遮る新たな問題状況を生み出すようになりました。

 大学の教師になって実感したことの一つは、多くの学生がまずは「偏差値」に従った受験・入学をしているという事実です。学びたい内容や課題意識による大学の選択は二の次か、特にない場合さえあります。受験産業のはじき出す偏差値と現役合格率を最優先にする高校の指導担当者の意見に従っただけの進学です。

 推薦入試にしても、高校の入試担当の教師の指示で、「○○の専門家として高名な埼玉大学の〇〇先生の下で学ぶことを志して受験しました」という、まったく心にもない「志望動機」を真顔で語る受験生さえいます。

 推薦入試の面接で「〇〇先生のゼミで学びたい」といいながら、実際のゼミ選択では私のゼミにやってきた学生がいました。「どうして〇〇先生のゼミを選択しないの?」と訊ねてみると、「あれは高校の先生の指導に従ったまでで、〇〇先生は厳しそうだから宗澤先生のところにしました」(「えっ?」-私の心のつぶやき)と言います。

 話しの内容はともかく、この学生が私相手なら自由に本音を話せるのであれば、ゼミにおける意見表明と参画を進める上でいいとするほかないと心を静めました。

 考えてみれば、現在の子どもたちは、持ち物や服装まで学校が管理し、登下校の仕方や道順まで学校が管理する生活をしています。小学校から高等学校までの最短12年間に及ぶ「管理された日常生活世界」を送った上で、大学に入学したのです。

 私の小中学校時代の登下校は、「歩道を歩きなさい」くらいの注意だけです。登下校の間に買い食いすることを含めて、道順はまったく自由でした。月曜日はたこ焼き、水曜日はお好み焼き、金曜日は駄菓子屋のおでんという回り道のくっついた「下校のゴールデンロード」の選択肢はいくつもありました。

 それに対して、現在の学校や教育委員会の登下校の道順指定は、交通安全を考えてのことでしょうし、持ち物や服装の指定管理も、思春期に服装で戸惑いをつくらせずあくまでも学業への専念を担保するためのものだという「親心」(パターナリズム)めいた管理です。

 それなら、学校は、白地に緑十字あしらった「安全第一」の旗や、小学館の勉強マークをつけた「学業第一」のマークを正門に掲げればいい。

 多くの親は、この学校と教育委員会による管理を支持しています。その方が親も楽だからです。むしろ、登下校に安全を見込める道順を学校が指定せず、子どもが交通事故に巻き込まれようものなら、マスコミは学校の落ち度をニュースに流し、親が学校を提訴するかも知れません。

 大学の評価も偏差値、科研費等外部研究費の獲得額、そして教員の執筆した「研究論文の引用回数」によって外部から評価されます。

 日本語で執筆された論文は、海外の研究者が日本語を読めないために、引用に制約がつきまとうのです。そこで、サマリー(要約)を英語表記にした上で、論文が海外から注目されるための英語表記のキーワードをつけておくと「引用回数が上がる」という議論が教授会に出てくるありさまです。

 つまり、自分なりの意見をもつ前に、自分の外側から管理される強力なシステムが社会のさまざまな領域を覆いつくすようになってきたのです。

 介護保険のサービス給付と保険収支、障害福祉のサービス給付と事業者報酬の状況等については、事業者と市町村のコンピューター・ネットワークを通じ、国はリアルタイムで状況を把握しています。国はこれらのデータを元に、サービスと報酬の改定を行います。

 セブンイレブンが先陣を切ったコンビニの商品管理システムは、各店舗の在庫と売れ行きをリアルタイムで把握しながら、在庫管理と出荷を最適化します。気温が何度くらいになればおでんや肉まん・あんまん類の需要が増大するかなど、微に入り細に渡る商品管理を徹底しています。

 各店舗の「オーナー」は、そのような本社の管理の枠組みの中で利益を最大化しようとするだけです。品ぞろえの判断や新商品の開発等は、本社の管理に従うことがコンビニの「オーナー」の得策です。

 このような管理システムは、個人の意思によるものではなく、コンピューターやAIによる「合理的な判断による管理システム」です。日本将棋連盟のプロ棋士の対局解説でさえ、AIのはじき出す勝率数値を前置きして話を組み立てる時代です。

 AIによる「合理的管理の強化」と「合理的で現実的な提案」が今後ますます進むことは間違いありません。すると、自分が下手に考えて意見を持って表明するよりも、「合理的判断による管理」に従う方が、間違いは圧倒的に起こりにくい。

 そうして「管理慣れ」の生活態度が当たり前となり、管理システムの「合理的判断」やAIによる提案に従って生きるのがマジョリティの趨勢となります。ここに個人として「異論」を唱えるのはとてつもなく難しい。

 もし、自分の考えや意見を表明するとすれば、周囲に対して細心の注意と気遣いを払いつつ、自分が「異端視」されないように話さなければならない。また、意見表明した内容の一部だけが「ニーズ」として取り出され、「商品化にもっていく管理システム」に乗せられてしまうリスクだってあるでしょう。

 意見表明がそんな面倒なことなら、「合理的判断の管理システム」に順応する日常に埋没した方が楽です。この事態は、現代版の「自由からの逃走」(E.フロム)が広く蔓延するようになっているとみていいのではないか。

 このような日常生活世界に埋没する支援者や大人は、「『意見がない』は思い込み、従わせていないか」ではなく、「管理システムによる合理的な判断」に従う毎日を疑わず、問題として自覚することなく過ごしているのです。

 子どもの権利条約の批准から30年近く、子どもの意見表明と参画の権利を放置してきた事実も、障害者権利条約の批准から10年経っても意思決定支援が広がらない現実は、支援者自身が意見表明や意思決定を空洞化させている日常生活世界に身を置いているからではないでしょうか。

 だから、子どもの意見表明や障害のある人の意思決定支援が「権利」だといわれても、自分たちが「管理慣れ」して日々の生活を送っているのだから、切実な支援課題として浮上することはないのです。

アレのアレのアレとなるか?

 ♩ 六甲おろしに 颯爽と ♯
 ♭ 蒼天駆ける 日輪の ♪

 久しぶりに阪神タイガースファンをしています。大阪に住んでいた時代、岡田監督はご近所でした。「アレ(リーグ優勝)のアレ(CS優勝)」を達成し、最後に「アレ(日本シリーズ優勝)」となるかどうか。阪神タイガースの優勝記念セールが首都圏でさすがに少ないところは残念です。

 年季の入ったタイガースファンといえども、甲子園球場のライトスタンドで騒がしく応援したり、「あと一球」を連呼するタイプではなく、一喜一憂せずに静観するファンです。タイガースのオールドファンは、ここというところで負ける数々の苦い場面を味わっていますから、一喜一憂していたら身が待たないのです。

 この間、タイガースファンからしばらく遠ざかっていたのですが、商業主義と国威高揚に汚職までがへばりついたオリンピック(東京2020はさらに汚職付)の反動で、日本のプロ野球に見直した点があるのです。

 忌わしい東京2020が一段落したかと思えば、アジア競技大会、ラグビー・ワールドカップ、サッカー・ワールドカップ予選などが続きます。テレビでは、オリンピックやテニスで昔活躍した元選手の「スポーツ芸人」が、ありとあらゆる「感動ストーリー」を語り、心底辟易していました。

 それに対して、年季の入った商業主義でありながら、昔からの地方土着型の応援風景のあるプロ野球は、いささか懐かしくもあり、いじらしく見えてきたのです。オリンピックやアジア競技大会の解説に登場する「スポーツ芸人」が登場しないことも好ましい。「アレのアレのアレ」を期待してまっせ!