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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

市民としてのモーツアルト


 モーツアルト(1756‐1791)は、絶対主義から近代市民社会への過渡期に生きた、歴史上初のフリーランスの音楽家です。音楽史の中では、ハイドン(1732‐1809)やベートーベン(1770‐1827)と並び、古典派の音楽家を代表する一人です。

 これに先立つ時代は、ヘンデル(1685‐1759)やバッハ(1685‐1750)たちがバロック音楽を完成させています。

 18世紀前半のバロック音楽は、教会権力と世俗権力が相互利害で結びついていた時代を反映し、教会と君主の支配的な絶対性を象徴する表現様式を重視していました。

 モーツアルトの生きた18世紀後半は、世俗権力が教会権力を上回る勢いを持つようになり、さらに、産業活動によって力をつけてきた市民階層(ブルジョアジー)が音楽のあり方を左右する傾向を強めます。お金を払えば、市民がコンサートやオペラを楽しむことのできる時代が到来したからです。

 宗教改革を経て、教会音楽から世俗音楽に移行していく過渡期に、バロック音楽や古典派音楽が花開いたのです。ただ、人間的な感情や想念を自由に音楽に表現することは、音楽家にとってたやすい道程ではありませんでした。

 社会体制が急速に変化する時代にあって、旧い体制の枠組みに閉じられることなく、自由で批判的な精神から音楽を創造する営みには、不屈の魂と特別の苦労が必要でした。

 たとえば、大バッハでさえ音楽の道で生きていくための「就職」には大変な苦労を強いられました。自由な音楽活動と自らと家族の暮らしを守るための「就活」は苦心の連続だったのです。

 大教会のオルガニストと聖歌隊指揮者を兼任する職を転々とし、領主エルンスト公の下に仕えたヴァイマル時代(1708‐1717)の末期には、政争に巻き込まれて冷遇を強いられています。不満を抱いたバッハが領主に辞表を提出すると、不服従の罪で4週間も拘留されてしまう始末です。

 バッハは、音楽に理解と造詣の深い領主レオポルト公から特別の待遇を受けたケーテン時代(1717‐1723)にはじめて、音楽に没頭できる環境に身を置いたと言われています。

 今でも、芸術の世界で生きることには苦労がつきまといます。不安定就労・不安定生活の代表格といっていい。しかし、現在なら「曲がヒット」すれば独り立ちできるところが、18世紀は政治的・経済的権力を持つ支配層のパトロンを得なければ、いかに才能のある音楽家でも生きていくことは不可能でした。

 モーツアルトは、36年に満たない人生の中で、10年間を旅に費やしています。前々回のブログで取り上げたシスティーナ礼拝堂のミゼレーレ・エピソードも、父レオポルトに連れられたイタリア旅行の最中での出来事です。

 父レオポルトは、ザルツブルグ大司教宮廷の音楽家(最終職は、副楽長)として「禄を食む」暮らしを続ける中で、音楽の道で生きることの苦労を知り抜いた人のようです。そこで、特別な音楽的才能があると見込んだ息子モーツアルトを連れてヨーロッパ各地を旅した目的は、より良い待遇で雇ってくれる君主探しの「就活」だったと言われています。この「就活」は失敗に終わりました。

 モーツアルト自身は、ヨーロッパ各地の多彩な音楽と音楽家との交流を通じて、この時代のほぼすべての音楽ジャンルに通じた類まれなる音楽家に成長します。教会音楽に世俗音楽、セレナードに交響曲、管弦楽曲に協奏曲(ピアノ、クラリネット等)、ピアノソナタに四重奏曲、オペラにカンタータ…。

 短い人生の中で、これほど縦横無尽の音楽活動を展開した音楽家は、モーツアルトを置いて他にはないと言っていい。それだけに、モーツアルトは自由に駆け抜く音楽家として、絶対主義と父親の束縛からの解放を希求していました。

 モーツアルトがザルツブルグ大司教と袂を分かち、ウィーンでフリーな音楽家になることに、父レオポルトは最後まで反対し、コンスタンツェとの結婚にも大反対でした。

 今風に言うと、父レオポルトには就職先や結婚相手のことに口を挟んでコントロールしようとする「毒親」的傾向があったのです。しかし、重要なことは、絶対主義的封建制から近代市民社会への過渡期に、モーツアルトは近代的個人に接近し、市民として生きる道を貫こうとした点にあります。

 モーツアルトがなくなる2年前にフランス革命が始まります(1789)。革命というと、多くの民衆が蜂起するイメージを持ちがちですが、市民革命を主導する人たちと多くの民衆の間には大きな隔たりがありました。

 市民革命を主導する人たちは当時の最先端の知見をもって社会変革に立ち向かっています。その一方で、フランス革命の最中にルイ16世が逃亡した(1791)ことを知ったパリの民衆は、「国王がいないのに太陽が昇った」ことにとても驚いたと言われています。

 このような時代状況の中で、迷信や不合理な考え方に縛られていた旧体制から人間を解放しようとする貴族、大学教授、ブルジョアジー等は、フリーメイスンという秘密結社をつくりヨーロッパ各地で盛んに活動しています。

 モーツアルトはウィーンの「慈善」という名称のロッジ(フリーメイスンの組織の基礎単位)に自主的・自覚的に入っています(詳しくは次を参照のこと。茅田俊一著『フリーメイスンとモーツァルト』、1997年、講談社現代新書)。

 当時のフリーメイスンは、錬金術から近代合理主義までが混在していたようですが、モーツアルトの入ったロッジは、貴族がほとんどおらず、信教の自由(カソリックかプロテスタントかという自由)、人身の保護、科学的合理性をもった教育政策などを支持するグループでした。

 絶対主義の時代に、「人間の自由」や「結社の自由」は社会的に認められてはいません。しかし、雨乞いのためにカソリック教会の鐘を鳴らし続けるような不合理さとカソリック中心主義的世界観にある旧体制(=アンシャンレジーム)を変革する必要性の自覚は、君主にも広まっていました。それが、「上から啓蒙しよう」とする絶対主義の下での啓蒙思想です。

 モーツアルトの音楽活動は、絶対主義から近代市民社会に向かう狭間の制約を受けていました。ウィーンの啓蒙主義的君主であったヨーゼフ2世が逝去し、フランス革命に向かう不穏な社会情勢の下、ハプスブルグ家の支配の続くウィーンでは、フリーメイスンへの抑圧が強められます。

 その時、モーツアルトは最後までフリーメイスンに留まり、フリーメイスンに敬意を表して、世俗オペラ『魔笛』を完成させました。『魔笛』のあら筋はざっと次のようです。

 王子タミーノは「魔法の笛」に導かれ、さまざまな試練を乗り越えて夜の女王の娘パミーナと結ばれるというロマンスの展開に、夜の世界を支配する女王が昼の世界を支配するザラストロに倒されるという話が重なっています。

 このオペラは、カソリック信仰からの離脱を鮮明にして、フリーメイスンを象徴するシンボルをオペラの中に取り入れ、恋愛と自由意思にもとづくロマンスの成就を展開するところに、頑迷で不合理な支配者が倒されるストーリーを重ねています。多くの点で、近代市民社会に花開くロマン主義に接近しています。

 モーツアルトの年収は、オーストリア政府観光局公式サイトによると、約5,000フロリン銀貨(現在の価値で150,000ユーロ、1ユーロ=145円のレートで2,175万円)でした( https://www.austria.info/jp/service-and-facts/famous-austrian-people/wolfgang-amadeus-mozart )。

 当時としてはとてつもない高額所得者らしいのですが、モーツアルトは、資産と金銭の管理にまるで計画性がなく、常に散在し、借金を重ねていたと指摘されています。この辺りは、ADHDの特性を反映した生活上の困難ですが、パトロンを持たないフリーランスの音楽家に、作品興行の当たりはずれによる収入の不安定のあったことは間違いありません。

 晩年(1988)の作である三大交響曲の第39番(変ホ長調、K.543)、第40番(ト短調、K.550)、第41番「ジュピター」(ハ長調、K.551)は、いずれも後世に残る名曲であるにも拘らず、当時は、聴衆が演奏会に集まらず、演奏されることはありませんでした。その時、モーツアルトは借金の無心をしています。

 それでも、モーツアルトは、教会や君主のパトロンにおもねることなく、音楽家としての自由を貫き、あらゆるジャンルの音楽に質の高い作品を残しました。

 岩波明さんは、アメリカの心理学者トム・ハートマンのADHDに係わる指摘から、「計画性がない」は「柔軟である」に、「指示に従うことが苦手」は「自立している」に、それぞれ置き替えることができると述べています(岩波明著『天才と発達障害』、25頁、2019年、文春新書)。モーツアルトの音楽に関する「柔軟性」や君主と父親からの「自立」は、まさにこれらの指摘が当てはまります。

 ただし、私は「発達障害という才能」という捉え方には異論を持ちます。ADHDの人からそうでない人を見れば、「約束事や時間を守ることができる」「計画性がある」という点で、とてつもない「才能」に映るのではないでしょうか。

 発達障害のある天才がいるとしても、数多くの凡才に支えられてはじめて、その才能を発揮することができたはずです。恐らく、モーツアルトもフリーメイスンの仲間や妻コンスタンツェに支えられてこその音楽活動だったでしょう。

 障害のあるなしを含め、また、障害のあるなしにかかわらず、それぞれの人間の持つ感性や能力の多様性を相互に認め尊重し合う世界の中で、障害のある人との共生が深化発展するものと考えます。

 なお、教会と君主に距離を置いたためか、モーツアルトは共同墓地に埋葬されて特定の墓はなく、埋葬場所は不明です。

モーツアルトの謎‐埋葬場所は不明です

 音楽家の坂本龍一さんがお亡くなりになりました。坂本さんは、旧体制から新しい時代に向かう混迷の現代にあって、多彩なジャンルの、新しい型の音楽を創造し続けてきた方でした。民衆への信頼と自然に対する畏敬の念とともに、反原発と平和憲法を守る社会的な闘いにも参加しながら、音楽というメッセージを最期まで発信されました。私は坂本さんの『Happy End』や『Aqua』がとくに好きなため、この間は追悼の念を込めて弾いています