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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

モーツアルトの音像記憶


 モーツアルトは、ミゼレーレを一度聞いただけで採譜したお話を前回のブログでご紹介しました。その他にも、チャイコフスキーのピアノ協奏曲を一度聞いただけで、それをすぐに演奏できる人のいることが分かっています。

 驚異的な能力を持ちながら、ASDや知的障害のある人の症状については「サヴァン症候群」といわれています。これまでの病跡学研究の指摘によると、モーツアルトはADHDのみの指摘ですから、サヴァン症候群に該当するとは言えないようです。

 この症候群に関して私の知るもっとも古典的な本は、ダロルド・A.トレッファート著『なぜかれらは天才的能力を示すのか―サヴァン症候群の脅威』(1990年、草思社)です。昨今は、発達障害と天才への関心の高まりを背景に、ネット検索でも山のように情報が出てきます。

 岩波明さんの『発達障害という才能』(SB新書、2021年、130頁)にも解説があり、放浪の画家として有名な山下清は、放浪中には一枚のスケッチを描いたことはないが、驚異的な「映像記憶」によって、「数か月たってから風景の細かい部分まで再現し、多数の作品を残している」とあります。

 先日逝去されたノーベル文学賞の大江健三郎の息子さんで作曲家の大江光さんの作品は、これまでに聞いた楽曲の音像をさまざまに組み合わせたものではないかと指摘されてきました。これも、あるいはサヴァン症候群に該当するかも知れません。

 サヴァン症候群は、芸術的な才能、計算能力、映像記憶、時空間の認知等に驚異的な能力を示します。脳の損傷と関連する特異な能力であることが解明されつつあり、後天的な事故や認知症がサヴァン症候群をもたらす事例報告もあるようです。

 さて、モーツアルトのミゼレーレの採譜は、サヴァン症候群とは係わりのない単なる音楽的天才によるものかも知れません。ただ、この採譜を可能にする記憶のあり方は、完璧な音像記憶だったのではないかと私は考えています。音像記憶とは、音の組み合わせが記憶されているだけではなく、各パートの音像定位も含まれます。

 例えば、ベートーベンの交響曲第5番「運命」などの、フルオーケストラの曲のステレオ再生から考えてみましょう。

 各パートの音の流れとその組み合わせが交わり響き、「運命」という曲が聞こえてきます。この時、オーケストラを構成する各パートの配置が音像に定位されています。

 弦楽器については、向かって左前部に第一ヴァイオリン、その後ろに第二ヴァイオリン、中央から右前部にビオラ、その右または後ろにチェロ、その奥にコントラバスが、それぞれ配置されていることが分かります。

 これと同様に、管楽器については、オケ全体の中ほどから右にかけてフルート、クラリネット、オーボエ、ファゴットと並び、その奥にホルン、トロンボーン、トランペット等がそれぞれ配置されている音像が確認できます。

 いささか話が逸れますが、スピーカーの配線に左右の間違いがないかどうかは、フルオーケストラの曲を流してみて、左側前部に第一ヴァイオリンが、右側にチェロやコントラバスがそれぞれ音像定位していることから確認することができます。

 生演奏の楽曲は、前後・左右・上下の3次元空間に、時間軸の入った4次元で構成される音像です。モーツアルトは楽曲を一度聞くだけで、音色の異なるパートそれぞれの旋律と、各パートの空間配置等が、完璧に分節化された状態で、かつ長時間に及ぶ曲の全体を「流れる音像」として記憶できるのです。

 モーツアルトの音像記憶は、「忘れないように暗記する」という私たちの通常の営みの延長線上のものではありません。私たちが努力すれば獲得できるものではないのです。

 音を拾う感度と正確さは最高度ですから、弦楽器や鍵盤楽器の楽曲の場合は、間違いなく倍音を含む音像記憶だったでしょう。弦楽器や鍵盤楽器では、たとえばドの音を鳴らすと倍音のソの音も聞こえてくるからです。採譜では、このような余計な倍音を排除する注意も忘れなかったはずです(倍音が聞こえて捕捉することは芸大に入る人の多くが持っている能力ですから、モーツアルトが倍音を捕捉したことは間違いありません)。

 モーツアルトのミゼレーレの採譜は、まるで自分の頭の中に入っている音像記憶(=録音データー)に従って譜面を起こすだけの簡単な作業だったかもしれない。

 そして、モーツアルトの作曲は、このような採譜とは逆に、複数のパートの奏でる旋律が頭の中で音像として溢れるように流れ出るプロセスだった。

 モーツアルトを描いた映画『アマデウス』で、死ぬ間際のモーツアルトが未完に終わる『レクイエム』(K.626、1791年)と、最後のオペラとなる『魔笛』(K.620、1791年)の作曲に係わる場面があります(「K」は「ケッフェル」と読み、モーツアルトの作品を番号順に示すもの)。

 モーツアルトは『魔笛』の楽譜を催促するオペラの興行主に対して「僕の頭の中ですでに完成している」と言います。これは映画によるデフォルメではなく、モーツアルトの実像だった可能性が高い。オペラの音像は彼の頭の中でほぼ完成していて、後はそれを譜面に起こすだけの状態だということです。

 『レクイエム』の作曲は、臨終間際で弱り切ったモーツアルトの歌声をサリエリ(この映画の中でサリエリは凡才作曲家という位置づけ)が採譜する場面として描かれます。この部分は実話ではありませんが、モーツアルトの作曲の実際に限りなく接近した場面だと思います。

 モーツアルトの頭の中で複数のパートから構成される曲の音像が不断に創出され流れ出てくる。それをモーツアルトは矢継ぎ早に、複数パートの音の流れを歌います。

 ところが、サリエリはパーツごとの音の流れを組み合わせる凡才の作曲家(と映画では描かれている)。だから、複数のパートの音の流れを矢継ぎ早に歌ってくるモーツアルトにサリエリの採譜はまったく追いつかないのです。

 この場面は、凡才のサリエリを鏡に、モーツアルトの天才ぶりを照らし出している点で、最高に面白いところです。

 モーツアルトは5歳から作曲を始め、12歳になる頃にはすでに、オペラ3作品、6つの交響曲等の数百作品を作っています。そして、36年に満たない短い人生の間に、626作品を残しました。モーツアルトが偉大で天才的な音楽家であったことに異論を挟む余地はありません。

 それと同時に、この天才的音楽家モーツアルトについては、常に落ち着きがなく、余計な言葉を無頓着に口に出し、贅沢三昧の散財をしていた等、天才ぶりとともにあるADHDの特質に光を当てる伝記と病跡学の研究成果が目立つようです。

 しかし、天才的な音楽活動とADHDの障害特性に由来する言動の側面のみで、果たしてモーツアルトの全体像といえるかどうかについての疑問は残ります。次回のブログでは、18世紀後半のヨーロッパに市民として生きたモーツアルト像を探ってみたいと思います。障害のある市民としてのモーツアルトを考えてみたいのです。

長崎の世界遺産-黒崎教会礼拝堂

 大きな礼拝堂のオルガンで、私は聖歌隊の伴奏をしていたことがありました。この経験から言うと、オルガンと聖歌隊の歌唱の音は、礼拝堂の左右前後の壁と天井の反響のタイムラグによって、本来は完全に分節化していた音が重なり合い、音の境目も鮮明でなくなった状態で聞こえてくるのです。礼拝堂の構造によっても、音の重なり方やボケ方は異なります。礼拝堂でオルガン奏者が聖歌隊をリードし続けるキモは、この反響音を峻別できる耳にあります。

 長さ40.23m、幅13.41m、高さ20.70mという大きさのシスティーナ礼拝堂は、その反響音が、聞き手に包み込むようなソフトさを醸し出すと同時に、音を分節化して拾う作業には特別の困難がもたらしたでしょう。モーツアルトはこのような状況の下でミゼレーレを採譜したのです。改めて、驚きを憶えます。