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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

私的老害論


 「老害」とは、「(老人による害の意)硬直した考え方の高齢者が指導的立場を占め、組織の活力が失われること」です(広辞苑[第六版]より)。組織の世代交代や新陳代謝を阻む高齢者(または高齢層)が組織の幹部層に居座ることによって、活力や発展が失われる問題を指します。

 障害福祉に係わる業界団体や当事者団体には、残念ながら、このような例が山のように見受けられます。

 年を取れば組織の要職を退き、若い世代の活躍できる条件を作るポジションに身を置き替えて、かつての経験や知見が求められる場合に限って具申する程度が望ましい。ところが、障害福祉に係わる世界には、70や80を過ぎてもなお組織のトップに居座り続けるまことに不思議な現象があります。

 都道府県レベルの当事者団体の、80歳代の長に「あなたはいつまで長を続けるのですか」と尋ねたところ、「勲章をもらえば辞めますよ」という答えが返ってきて、心底驚いた経験があります。この人は実際、90歳近くになって勲章をもらってから、やっと組織の長から降りました。

 かねてから、どうしてこのような現実があるのだろうと不可解に思ってきました。多くの組織が、年長者に力の優位性を置く家父長制的共同体主義の悪弊を、未だに引き摺っている意味が理解できません。

 表向きの「看板」は民主的な手続きを経て選出された「長」であるとしても、その実態の本質は、時代錯誤な家父長制的支配構造の維持に過ぎません。

 民間企業の多くが組織発展の阻害要因である年功序列を廃止しつつある現代に、障害福祉に関連する団体組織には、未だにこのような古い秩序を維持しようとする傾向があります。それは即ち、障害福祉に関連する組織が停滞し、発展していないことを表わしているのではないでしょうか。

 文学・音楽・美術等の芸術の世界では、死ぬ間際まで現役だという例が珍しくないとしても、それ以外の社会領域で「死ぬ間際まで現役」というのはごく稀な例外です。

 それでも、老害を発生させている当事者は、一般に、老害についての自覚はありません。むしろ、「まだまだ現役で頑張る」「自分の長年にわたる知見と経験はこの組織に必要だ」と思い込んでいます。

 どうしてこのような現象が発生するのか?

 この疑問を解く身近なヒントが、友人同士の間で起こりました。若い時代からのバイク仲間で、私を含むバイク仲間の3人は、未だにバイクに乗ることに未練を引き摺って生きてきました。

 40歳過ぎまで400ccのバイクに乗っていた私は、この10年ほど、再びバイクに乗りたくて仕方ない気持ちに駆られ、たとえば、新しく出たホンダのGB350を買うか買うまいかの葛藤に苛まされてきました。

 ある友人は、自慢の750ccで山口県から青森県までの日本海側を北上することを夢にしていました。もう一人の友人は郷里が北海道で、首都圏で子どもたちを育て上げたら、夏の北海道をバイクで周遊する希望を抱いてきたのです。

 この3人に共通する点があります。年を取った現在でも、若い頃に颯爽とバイクに乗っていた自己像を未だに抱いていることです。今でも、若い頃と同様に大型バイクで疾駆できるイメージを持っている。

 オートバイの運転は、排気量がある程度大きくなると基礎体力が必要です。ガソリン・タンクをニーグリップして姿勢を保持する、左右にカーブするための筋力や反射神経の鋭敏さが必要不可欠です。

 齢を重ね、すでに筋力は落ち、反射神経も鈍っている現在の自分を正視せず、「俺はまだまだ現役でオートバイを操ることができる」と、周囲には甚だ迷惑で厄介な思い込みが自己像の中核に居座るのです。

 しかし、寄る年波には勝てず。現実は甘くありません。茨城県の大洗からフェリーで夏の北海道に渡り、オートバイのツーリングを始めた友人は、一週間ほどでリタイア。砂をかぶった舗装路のカーブに対応できずに転倒してお仕舞。

 バイクのツーリングで身を守るためのヘルメット、ブーツ、グローブ、ジャケット類は、十分なものでしたから、体に大きな被害がなかったのが不幸中の幸いです。年の功は、ツーリングの身支度にだけに表れました。

 もう一人の友人は、夏の日本海を北上する夢に拘っていたところ、自宅でぎっくり腰になってしまい、痛さに苛まされる経験をしました。「ツーリングに出て、大型バイクのスタンドを立てるときに、ぎっくり腰が再発したら大変だ」という恐怖感情に襲われるようになり、ツーリングを断念してバイクを売ることにしたそうです。

 このようにみてくると、老いに伴う能力の衰えを自覚できないまま、若い頃の自己像を引き摺っている場合に、老害が発生すると言えそうです。

 もう一つ別の、老害の発生パターンがあります。

 例えば、私が研究の世界に足を踏み入れた大学院生の時代には、資料調べは国立国会図書館をはじめとする図書館巡り、統計は分厚い紙媒体の資料から必要部分を摘出することが当たり前の研究プロセスでした。

 ところが、今や、文献調べはCiNiiやGoogle Scholarからはじまり、統計資料の多くはインターネットを通じて入手できる。そうして得た情報を処理するツールと議論のスキームも以前とは全く異なっています。

 自分が若い時代の専門的なスキルにしがみついていると、新しい時代の知見とスキルに追いついて行っていないにも拘らず、「自分はまだまだ現役だ」との思い込みを続けてしまう。

 このようにみてくると、社会変化と技術革新のスピードの速い現代は、「人生百年時代」といいながら、「老害」の発生しやすい時代なのかもしれません。

 でも、「老=害」では決してありません。「若さ」とは異なる「老」の積極的な意味や活かし方を知らないだけなのかもしれません。次回は、この点について考えてみます。

受験シーズン

 JR御茶ノ水駅で夕刻に友人と落ち合う待ち時間に佇んでいると、明治大学の入学試験を終えた夥しい数の受験生が押し寄せてきました。受験生はキビキビと帰途に向かって歩いています。すると、自分の大学受験を昨日のことのように思い出し、「俺もこれからが勝負だ」と頭が勝手に叫びます。私も、体力と知力の衰えをどうも自覚しきれていないようです。くわばら、くわばら。