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梶川義人の虐待相談の現場から

梶川 義人 (かじかわ よしと)

様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。

プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)

日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。

手が届くのは痒くないところばかり


砂上の楼閣の住人たち

 私たちは、出生、就学、就職、結婚、出産、子育て、就業、退職、老後、死亡といったライフイベントに際し困難に陥ることがあります。しかし、痒いところに手が届くようには支援されません。

 私は最近、こうなるのは、わが国では私たちの生活基盤としての社会の制度や通念が、実態とは乖離した性別分業型の近代家族を前提にして作られたうえ、私たちがそれらを、ご都合主義で解釈しているからではないか、と考え始めました。

 事実わが国は、福祉を国・市場・家族・コミュニティの4者が提供する「ケア・ダイヤモンド」の家族への依存度が突出して高く、高齢者虐待や障害者虐待の事例でも、成人した子と親の同居率は、全世帯の同居率よりはるかに高くなっています。

 どうやら私たちは、近代家族がお仕着せる社会の制度や通念という「砂上の楼閣」の住人であり、脚本家・橋田壽賀子氏による国民的ドラマ「渡る世間に鬼ばかり」も、砂上の楼閣の住人たちを描いているのだ、と言えそうです。

 なるほど、幅広い視聴者層が感情移入できるはずですが、より本当の家族の実態に迫りたいなら、社会学者・上野千鶴子氏のファミリー・アイデンティティ論の視点から、このドラマを視聴してみることをおすすめします。

 「誰が誰のことを家族とみなしているか」にフォーカスすることで、私たちがいかにご都合主義なのかよく分かります。件のドラマでも、登場人物たちは自分の都合に合わせて節操なく、「家族扱い」と「よそ者扱い」を使い分けています。

世代間を貫く一貫性

 ところで、価値観は世代で大きく異なるので何かと闘争へと発展しがちです。脚本家・宮藤官九郎氏は、この世代間の価値観の相違点を、TVドラマ「不適切にもほどがある!」でユーモラスに描いています。

 そして、「以前は許されていたが今は許されない」典型として、ハラスメントの問題に触れています。しかし、「許される・許されない」の基準には、「法令」など明確なものと「常識」など曖昧なものがありますから、早合点は禁物です。

 正しくは、「法令的には昔も今もアウト。常識的にはかつてはセーフだが今はアウト」なのだと思います。そして「常識」について私は、「過半数の賛成」が目安になると考えています。

 数年前、「ら抜き言葉」を遣う人の数が遣わない人の数を上回りました。ところが、過半数には達していないため、現在は「常識」不在の状態にあります。しかし、ら抜き言葉を遣わない私は、遠からず「非常識」とされるだろう、というわけです。

 もっとも、後進に道を譲るなら、無益な闘争は避けたいものです。そこで、何か良いヒントはないかと探してみたら、100年に1度の再開発と言われる渋谷の再開発を率いる、建築家・内藤廣氏のモットーにたどり着きました。

 それは、「スクラップ・アンド・ビルドではなく、古いものと新しいものが一貫性をもって繋がるよう腐心する」というものですが、お仕着せではない家族のあり方を模索するためには、おあつらえ向きの考え方ではないでしょうか。

「もう痒くないところが無い…」
「困ったニャ~」