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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第147回 介護の仕事はサービス業
好きなことより嫌なことに注意を向ける

北川 久さん(60歳)
グループホーム
(東京・八王子市)

取材・文:藤山フジコ

神戸生まれのおぼっちゃん育ち

 生まれも育ちも神戸です。商売をしていた父の仕事の関係で、幼少のころから中華街で遊び、小学校に上がる前にもうマージャンを覚えるような早熟な子どもでした。母は教育熱心で、三歳からバイオリンと英語の英才教育を受けました。一方父は粋な遊び人で、馬主だったので競馬場に連れていかれ、小学生の僕にギャンブルとはどういうものなか教えてくれたり、外国人倶楽部に行き、マナーを教わったり。決して子ども扱いせず、何事も自分の頭で考えろと言われ育ちました。子どもながらに父はカッコよかったですね。

 教育大付属の小学校から中学受験を経て鹿児島のラサール中学に入学しました。学校の寮に入ったのですが、厳しかった母のもとを離れられ天国でした。中学、高校と鹿児島で過ごし、大学は東京芸術大学に合格。上京し晴れてひとり暮らしが始まりました。しかし入学してみると、まわりは自分より才能のある人間だらけで、将来、音楽で身を立てることは到底無理だと直ぐに悟りました。

3年かけて世界を回った放蕩生活

 そこで別の道を探るため様々なバイトを経験しました。大学4年の22歳の時、癌で父が他界しました。卒業後は大手生命保険会社に就職。勤めて3年目に母が心筋梗塞で急に亡くなったのです。会社に一週間休みをくださいと言ったらダメだと言われ会社を辞めちゃったんです。あまりに急に母が逝ってしまったので気持ちの整理が付かず、「これからどうしよう」と家の中で電気も付けず塞ぎこむ日々。そんなある日、「そうだ、海外に行こう」とふと思い立ったのです。子どもの頃、母が弦楽器の本場ドイツに勉強のため連れて行ってくれたことを思い出し、もう一度ヨーロッパへ行ってみたいと思ったのです。

 両親が億という遺産を残してくれたおかげで北朝鮮とキューバを除くすべての国を回りました。そんな放蕩生活を3年続け、お金も無くなってきたので三宮の喫茶店で働くことにしたのです。そこは父親が懇意にしていたご主人が経営していて、マネージメントを手伝ってほしいとのことでしたが、大学のときからさまざまなアルバイトを経験してきたので違和感はなかったですね。

阪神淡路大震災を経験

 マンションも購入し、仕事も順調でした。忘れもしない、平成7年1月17日、仕事帰りに雀荘へ行きマージャンをしていました。突然ドーンと突き上げる揺れがあって電気も消えて真っ暗の中、うめき声だけが聞こえてきて。店の冷蔵庫が対角線に飛ぶような衝撃でした。非常灯で店の中を照らすと、みな怪我をしていて血を流している。自分は、たまたまトイレにいて無事だったわけです。怪我人の手当てや水の確保などをしているうちに日が射してきてカーテンを開け外を見ると爆弾が落ちたのかという惨状でした。

 職場である喫茶店は半壊、自宅マンションは4階まで全壊。結局、このマンションで16名の方が亡くなられたんです。避難所にはご遺体もあるし、トイレの異臭もすごかったので、昼間は公園で寝て、夜は起きていました。飲まず食わずの生活が2週間経った頃、ようやく配給が来ておにぎりにありつけたという感じでしたね。

 その後、職場だった喫茶店の後始末などいろいろありましたが、結局全壊の自宅には一歩も入れないままマンションは壊されることになりました。このまま神戸にいても仕事はない、知り合いや伝手があったわけではないのですが、東京に出ようと思ったのです。

20年続けた塾講師

 カバンひとつで東京に来たら、サリンの事件後だったので何度も職務質問されました。新宿御苑で寝泊まりし、取りあえず住み込みで働けるところを探そうと思っていたところたまたま公園のベンチに置いてあった新聞に「雀荘店員住み込み可」と載ってたんですね。電話したら、直ぐに来れますかということで、働くことになりました。

 そこで出会ったお客さんに「君はこんなところで働く人間じゃないよ、君さえ良かったら塾の先生の口があるよ」と誘われたのです。しばらく昼は雀荘でバイト、15時からは塾講師の二足のわらじの生活でしたが、直ぐに塾が軌道に乗ったので、そちらに専念することにしました。ひとりで幼稚園児から大学生まで教え、多いときは100人位生徒がいました。塾に寝泊まりしながら、がむしゃらに仕事をしましたが楽しかった。塾として成果も出ていたのですが、57歳のとき、教えていて単語や公式が頭に出てこなくなったのです。教育に責任を持てないと思い20年続けた塾を閉めることにしました。周りから、学年を下げて小さい子を教えればいいと言われましたが、自分のプライドが許さなかった。

介護の仕事は日々勉強

 震災のときもそうでしたが、楽観主義なので「何とかなるさ」と思っていました。塾を辞め、この年でも働ける介護の仕事に就こうと学校へ行き初任者研修の資格を取り、紹介してもらったグループホームに就職しました。サービス業という畑を歩んできたので、介護も究極サービス業だと思い自信があったのですが、甘かったですね。入居者さんをお風呂に入れたり、トイレ介助したり、最初の頃は戸惑うことばかりでした。これは、習うより慣れろだと身を持って知りました。帰宅すると大学ノートにその日あったことを書いて勉強の日々。今でも介護技術は半人前だと思っています。だからこそ、入居者さんが、何が一番喜ばれるのか、何が不満なのかよく観察しています。とくに嫌がることには注意を向けています。無理やり何かするということは尊厳にかかわるので出来れば回避したい。会社の規則、決まりを踏まえた上で何が自分にできるか常に葛藤の日々です。

介護業界に期待すること

 介護の仕事に就いて3年になりますがこの業界にぜひ取り入れてほしいことがあります。摘便は医療行為にあたるので医師や看護師しかおこなうことができず、介護職員がおこなうことは原則として法律で禁止されています。ですから、不調があると下剤を飲ませるのですが、あれは大変なんですよ。水溶便になり、そのたびに身体を洗うわけにもいかず、本人も苦しみます。
 医師、看護師が不在のとき利用者さんに苦しい思いをさせるのは辛い。我々、介護職員がもっと質を高め、医療行為を業務としてすることができたら利用者さんの生活がもっと快適なものになるのではないか思うのです。2012年に「介護福祉士法及び社会福祉士法」の一部改正により、研修を受けた介護職員が一定の条件下であれば「たんの吸引」などの医療的ケアをおこなうことが可能となった事例もあります。苦しんでいる利用者さんの摘便をしてさしあげたい、それがこれからの夢です。

【久田恵の視点】
 波乱万丈の人生ですね! 人がしないような多くの経験をして、気持ちの思うところに任せて生きて、今、たどり着いたのが介護の世界。そこは、北川さんのこれまでの体験を活かせる場所だと思います。ユニークな視点で、この世界に物申して欲しいと思います。