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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


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花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第43回 ルーツは、母にしてあげられなかったことへの達成から 
でも、おもしろく、楽しくて辞められないんです

齋藤隆弘さん(43歳)
社会福祉法人敬心福祉会 特別養護老人ホーム千歳敬心苑(東京・世田谷)
介護主任

取材:進藤美恵子

10名くらいの従業員を雇っていました

 父と母と僕と妹の4人家族で育ちました。将来は、得意な理系分野を生かしてエンジニアになりたいと漠然と思っていました。今から25年くらい前のことです。大学進学のとき、僕が行きたい理系の大学と親が勧める大学がありました。親が勧める大学なら学費が出してもらえ、「自分の行きたい大学に行くなら、自分で稼いで行きなさい」と。親が勧めたのは国公立大学でした。でも、高校の指定校制度の推薦で私立大学に入れることがわかり、それなら受験勉強をしなくても…と身を委ねてしまいました。

 大学入学と同時にゲームソフトやDVDなどのメディアを売買する店舗のアルバイトを始めました。そこには偶然、学生支援制度があり、自分で稼いだバイト代から返済するという制度でした。学生時代の4年間はそれを活用して、アルバイトをしないと学費が払えないというような生活でした。

 大学卒業のとき、この店舗展開を手がける企業に「卒業後は事業本部で働かないか」と誘われて入社しました。東証一部上場の機械部品メーカーの一事業部の事業本部で勤務し、そこでは、メディアの仕入れ全般のバイヤーをやっていました。

 そこでキャリアを積んで、最終的には取締役に就任しましたが、そのタイミングになると、独立支援制度がありました。自分で起業をしてチェーン店を運営するという権限が与えられて、それを利用して27歳のときに独立起業しました。2店舗同時に立ち上げ、10名くらいの従業員を雇っていました。楽しかったですね。業界の景気もよかったですし、自分が頑張った分、見返りも大きかったので寝食を忘れて仕事をしていました。

 独立起業するときに、母親からの猛反対がありました。「サラリーマンとして安定した中で一生を終えてほしい」という。絶縁まで行くんじゃないかというくらいの猛反対を押し切って起業しました。

 それもあったので、「やっぱり自分で起業したら、お金を稼いで親孝行の一つでもしたいな。行ったことのない海外旅行にも連れて行ってあげたいし、家の1軒でも建ててあげられたらな」と思っていました。そうなれば、反対した母親も認めてくれるんじゃないかとそう思って。順調に時間も流れていきました。

母を亡くして、とりあえず社会に存在する人間としてやっていけるかなと思って応募した

 ある日、母親から「お母さん、急に目が見えなくなった」と連絡が入って。病院を受診したら脳腫瘍でした。手術を2回受けましたが、結果として半年で他界することになりました。

 そのとき、「どうして僕は今この仕事をしているんだろう」と呆然となりました。反対を押し切ってまでしている目的や目標もあったはずだとなったときに、反対していた母親が亡くなったことで、その目標を喪失してしまい、もう意味がないように感じてしまって。しばらく仕事ができないような状態になってしまいました。1か月半くらいですかね。

 このままでは社会に適応できない人間になってしまうんじゃないか。かと言って、自分のモチベーションを持てない現場に戻ることも精神的に難しくて、6年弱経営した店舗の売却を決意して精算しました。

 しばらくたって何か仕事をしなければいけないと感じたとき、手に職があるわけでもないし、有効な資格もない。持っている資格といったら自動車運転免許くらいしかないから、タクシードライバーにでもなろうかと思ってハローワークに行きました。

 タクシーも含めて車の運転の仕事をしたいと伝えると、いくつか紹介された仕事の中にデイサービスの送迎の仕事がありました。午前2時間、夕方2時間という短い時間でいいという募集内容でした。これだったら自分の気持ちや肉体に負荷なく、とりあえず社会に存在する人間としてやっていけるかなと思って、そこに応募しました。

 送迎ドライバーとして面接に行ったら、「実はワーカーの手も足りない。ワーカーもやってみないか」と言われ、そこで勤務を始めたのが福祉業界への第一歩でした。33歳のときです。正直、自分が将来に就くであろう仕事の中に、介護という選択肢はありませんでした。

 実は、母親の6か月の闘病中、日に日にADL(日常生活動作 Activities of Daily Living)が落ちて行きました。ある日、「お母さん、トイレに行きたい」と言うのに対して、「自分で行けよ。行ってきて」って言ったら、「自分で思うように立てなくて、這っていくしかないか」って這い出したんです。それを僕は見ていたら、途中で便失禁をしました。ビックリしちゃいまして、「何をやってるんだよ」って。そういう状態になってしまっている人をどうしたらいいかもわからず、ちょうど仕事に行く時間で、そのまま仕事に行ってしまいました。

 「お母さん、お風呂に入りたい」と言われても、「無理でしょ。その体じゃ入れないでしょ」って、お風呂にも入れてあげられなかった。病院の定期受診にいくとき、車椅子から車への移乗で僕の中では後部座席にお尻を乗せたつもりでしたが、落としてしまいました。その結果、腰椎圧迫骨折までさせてしまった。

 振り返ったときに、母親の反対を押し切ってまで独立して起業までしたのに、目的を果たせなかったことや、目の前で苦しんで助けを求めている母親に何もしてあげることができなかったなって気づいたのです。排泄一つ、入浴一つ、移乗一つ、知識も技術も何もないなって。これは学ぶいい機会だって思いました。

母親にできなかった知識や技術を身につけたいという気持ちが強かった

 最初は、社会への馴らしのつもりでした。いざ入ってみたら、ゆっくりやっていこうなんて余裕がないほど夢中になっていました。母親にできなかった知識や技術を身につけたいという気持ちが強かったのです。当時は気がつきませんでしたが、いま振り返ると、介護の仕事に出会っていなかったら、社会復帰ができなくなるくらい危ない状態だったなと思います。

 デイサービスの現場では、ショッキングなことがひとつありました。仕事に慣れてきて、利用者はこういうことを喜ぶんだな、こういうレクは集中してもらえるんだなというのがわかりかけていた頃のことです。ホワイトボードを使い“魚へん”の漢字をたくさん書いて、「読めますか?」というレクをしました。その日が偶然、電話の発明の日でした。それで、「今日、何の日かわかりますか? 電話では『もしもし』って言いますけど、なんでそうなったんでしょうかね」って話をしていたのです。

 漢字ともしもしの一連の中で、一つも漢字が読めなくて耳の遠い利用者の方が、「読めないんだったら、家に電話して聞け」と言われたように感じたらしく、激高されて、杖をふりかざして、「ぶっ殺してやる」って向かってきたことがあったんです。そのときは、もうだめかな、この仕事は僕には向いていないんじゃないかなと、かなりつらく、衝撃的で、僕の中では事件でした。

 先輩たちは「気にすんな」って、みんな言うんです。僕はそれを聞いたときに、「気にすんな」と言われても気になるし、気にしなくてもいいことなのかな、気にしたほうがいいんじゃないかなと感じて。なんであの人はあんなに激高したのか、そこには食い違いや誤解があるんですけど、アプローチに配慮が足りなかったことがこういう事態を引き起こしたと思ったときに、これは面白いと思いました。

 相手は人間だし、その気持ちとか、配慮とか、そういうものがケアなのかもしれないなと。そう思えたときに、深いかもしれないなというのを感じました。今も思い出せば気持ちが落ち込みますが、それを払拭するためにそういう気持ちを奮い立たせて取り組んでいました。

 その方は、その事件を境に利用をやめてしまって。これがきっかけにこういう施設を利用することがいやになってたりしたらどうしようかと、そんなことを考えていました。これを契機に、僕個人が、そういう人を二度と作らない、生まないためにスキルを磨いていこうと思いました。

 デイサービスでの日々、同じことの繰り返しに「こんなものかな? でも、こんな感じでいいのかな?」と思っても比較対象が僕の中でなかった。当時、3年の実務経験で国家試験の受験資格が得られたので、とりあえず3年頑張ろうと、4年弱そこに勤めました。

 デイサービスだと得られる技術や知識には限りもあり、僕が欲しいものは今ここでは手に入っていない。特養だったらすべて揃っているだろうからと思い切って37歳のときに、特別養護老人ホームにケアワーカーとして飛び込みました。

対人援助のプロとしてそこに存在する、胸を張れるお仕事ですよと言いたい

 特別養護老人ホーム千歳敬心苑では、従来型のいい部分のグループケアで毎日ケアを行っています。なおかつ入居者に対して「ハッピーになること」に積極的に取り組んでいたり、看取りケアも行っていたり、いちケアワーカーが自分の思うケアを実現できる環境がここにはあるんじゃないかなと僕は感じています。

 ケアには職員が10人いれば10通りあると思うんです。10通りすべてを否定しないですべて正解ですよと受容してくれる。自分の思うケアの道を閉ざすことなく、仕事に就けます。僕は、入居者の方に笑っていただきたい。「人らしく」とよく言いますけど、人らしくってなんだろうって考えたときにありとあらゆる生き物の中で、笑顔を作って声を出して笑えるって人間だけなんじゃないかな。じゃあ、笑うって、とても人間らしいんじゃないかなって。僕は入居者が笑って過ごす時間を提供したいと、いつも思っていますね。

 僕が今、この仕事をしているルーツは母親にできなかったことへの達成なんです。トイレもお風呂も移乗も何もしてあげられなかった免罪符を取りに来ている感覚ですかね。今この仕事に就いている自分をきっと母は認めてくれているような気がするんです。でもそれは小さいことで、自分の心の奥底にあるものです。実際に働いていて楽しいですね。それが一番の続けられている理由なんです。

 世間一般的に、介護業界や施設が細目で見られているというか、あまりいい気持ちで見ていただけていない偏重があると思うんです。そういった情勢の中では、施設で頑張って働きたいと思う人も減っているのかな。純粋に熱い気持ちで働ける職場もありますし、学校を卒業して若い頃からキャリアを積んで知識と経験と技術を積んで取り組まないといけないように映りがちですけど、僕のようにまったく違う畑や、もともと興味のなかった人間でも心一つでとてもいい仕事ができる。それを多くの人に知っていただきたいです。

 そして、介護に携わる人間もプロであるという、決して慈善であったり、偽善であったりするわけではなく、対人援助のプロとしてそこに存在する、胸を張れるお仕事ですよと言いたい。この仕事の魅力をもっと広げて、そしてこの仕事に携わる人間の地位の向上につながればいいなって思っています。

インタビュー感想

 「自分がやりたいことはみんなで協力するし、みんながやりたいことは自分も協力する、そういう土壌がここにはある」と話す齋藤さんは、もっぱらフルパワーで応援するほうが断然に多いそう。昨年のクリスマスでは、「職員全員でコーラスをプレゼントして入居者をハッピーにさせてあげたい」という一人のスタッフの想いが実り、入居者のみならず職員全員が感動を分かち合えるのを感じたと嬉しそうに話す姿が印象的でした。

【久田恵の眼】
 介護の仕事を選ぶきっかけや動機は、本当にさまざまです。実の親や、義父母、夫や妻など、大切な家族の介護体験が、この道を選択する入り口になったという方が大勢います。その背景には、突然、介護に直面した中で、十分なことができなかったという悔恨や無念さがあります。親の介護体験は、まさに子どもへの最後の教育、なのだと思います。
 「対人援助のプロ」という誇りを持って、仕事に向き合う方々に支えられて、日本の介護現場のクオリティーが高められていくだろう、そんな希望を感じさせられますね。