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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第3回  文化大革命を経験後、日本に来日、必死の思いで介護職に 
介護福祉士にも合格し、介護職11年。

伊坂 偉(イサカ イ)さん(64歳)
シルバーヴィラ向山(東京・練馬)

取材:藤山フジコ

文化大革命

 私は中国の上海で生まれ、多感な少女時代に文化大革命を経験しました。その15歳からの10年間は思い出すだけでも辛く、今でも深い心の傷となって残っています。

 文化大革命後、私は中国で電気製品のデザインの仕事をしていましが、なんとかこの中国を出て自由な地で生きていきたいと強く願っていました。日本に留学するチャンスが巡ってきたとき、母が「お金は用意したから行っておいで」と背中を押してくれたのです。当時私には9歳になる息子がいましたが、いつか必ず日本に呼び寄せると固く決心し、息子を置いて日本にやってきました。

 

息子のためなら何でもやる覚悟

 日本に来てからは、それはもう苦労しました。日本語学校と専門学校の4年間、掃除や皿洗いなどいくつもアルバイトを掛け持ちして働きました。一番大変だった時代です。仕事ぶりが認められ、卒業後、アルバイトで働いていた貿易会社の契約社員にしてもらえました。その頃、縁があって日本人と再婚し、生活はいくらか落ち着いてきました。会社もとてもよくしてくれ、楽しく働いていたのですが、52歳のとき不況で契約が切れてしまいました。

 ちょうどその時、中国に残してきた息子が日本の大学院で勉強したいと来日しました。リストラと息子の留学が重なって、本当に大変でした。でも、私は息子のためなら何でもやる覚悟でした。私には戻る道はなかったのです。

 当時、お金のなかった私は、自宅のある豊島園からハローワークのある池袋まで自転車で通いました。そこで、介護職を勧められました。正直、私に介護職が務まるのか自信はなかったのですが、2か月かけてホームヘルパー2級の資格を取得しました。指導してくれた先生に「日本人でも就職試験は十数回落ちるのだから、伊坂さんは30回はかかるかもしれないよ」と言われ、「ああ、仕事を見つけるのは大変なことなんだな」とあらためて思いました。

 最初の面接試験が、新聞の求人欄に載っていたシルバーヴィラ向山でした。「明日から来てください」と言われたときは、30回は試験に落ちると覚悟していたので、飛び上がるほど嬉しかったです。ここに就職できたおかけで、息子を大学院に入れることができ、本当に感謝しています。

私を変えたある利用者さん

 介護の仕事は、最初はとまどいました。でも、ある利用者さんとの出会いが私の介護人生を変えてくれたんです。

 その方は要介護5の障害の重い方で、食事の介助のとき、私は食べてもらいたい一心で厳しい態度になってしまっていたのです。ふとその方を見ると悲しい顔をされていて。私、すぐに謝りました。それからは相手のペースや体調に合わせるように変えていきました。そしたら関係もとても良くなったんです。その方が亡くなったときは涙が止まりませんでした。もっと早く気づいてあげればよかったと。そのとき、これからは絶対に後悔しない介護をすると心に決めたんです。人を思いやる大切さをその方が教えてくれました。介護福祉士の国家試験にも56歳のとき、合格しました。

 中国にいる母は苦労して日本へやった娘が介護職に就いていることを、最初は決して認めてくれませんでした。11年前の中国では、介護の仕事は社会的に低くみられていたんです。でも、今では母も私のことを誇りに思ってくれています。

 今の私の最大の楽しみは16年間続けている絵画教室です。先日、中国で幼馴染に会いました。彼女は私があまりに変わってしまって、「かわいそうだ」と手をさすりながら泣くんです。私の手は労働者の手だから。でも、私は「とても幸せだよ」と言ったんです。今の私には好きなことができる何にも代えがたい幸せがある。でも、彼女にはそれはなかなか伝わらない。この仕事を退職したら、生まれ故郷の上海で個展を開きたい。私の夢ですね。日本で私が描いてきた絵を通して、私の生きざまを中国の皆に見てほしいのです。

 介護の仕事に就いたことで私は変われました。一生懸命やると利用者さんも心で感じてくれる。介護は心を通わす深い仕事です。今までかかわった全ての人たちに感謝しています。

食事介助

インタビュー感想

 伊坂さんは文化大革命という混乱の中、過酷な青春時代を送りました。日本に来てからも苦労続きでしたが、困難を成長に変えていった前向きな生き方には胸を打たれました。「今は幸せ」と胸を張れる彼女に、底知れない強さと深い優しさを感じました。

【久田恵の眼】
 介護の現場は、実は、さまざまな人生を経てきた人たちが交錯し合う場です。こんな職場はおそらく他にはないでしょう。
 介護の仕事をする人たちは「ヘルパーさん」などと一言でくくられ、介護を受ける利用者の方々も、「高齢な方たち」と単純にくくられてしまいがちです。でも、今、大きく門戸の開かれている介護の世界は、時代に翻弄されながらも懸命に生きてきた人たちが、知らず知らずのうちに出会って、影響を受け合い、学び合っている類ない場でもあるのです。
 「伊坂さん、頑張れ! そして、ありがとう」と言いたいです。