メニュー(閉じる)
閉じる

ここから本文です

福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。


●インタビュー大募集
「このコーナーに出てみたい(自薦)、出してみたい(他薦)」と思われる方がいらっしゃったら、
terada@chuohoki.co.jp
までご連絡ください。折り返し、連絡させていただきます。

花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第27 回③ 並木悠造 福祉タクシーなみき ドライバー
気楽に始めた特別支援学校の教員生活で
子どもたちと共に悩み、成長する時間を共有

福祉タクシーなみき ドライバー
並木 悠造(なみき ゆうぞう)
1947年生まれ。障がいのある人たちや高齢者がもっと自由で気軽に病院に行ったり遊びに行ったりできるようにと、定年を機に福祉タクシーを起業。長年、特別支援学校で教諭を勤めた経験を活かして、長男と共にハンドルを握る。

取材・文:毛利マスミ


前回は、立ち上げの費用や運営の実際について伺いました。今回は福祉タクシーを起業する前の教員時代についてお聞きします。

──特別支援学校の教師になった理由を教えてください。

 教師になろうと思ったのは、私の父が小学校の教員を務めていたことも理由かもしれませんが、そもそもは「人を評価する」教師という仕事には就く気はなかったんです。「できる子」「できない子」と評価することは好きではありませんでした。
 それで大学は理学部数学科に進み、銀行とか研究所とかに勤めたいと考えていたんですが……。ちょうどコンピュータの黎明期ということもあり、大学では一日中研究室にこもっていて、帰るときには暗くなっているという生活だったんです。それは性に合わないと感じていました。また、専攻している数学も自分に合っていませんでした。例えば同じ理系でも物理は、自然界の物質や現象を理論で裏づける学問で自然科学です。対して数学は数、量などに関する学問で、抽象的なんです。この架空の世界観が私には合っていませんでした。
 ちょうど学生運動の時代ということもあって、卒業には5年かかりましたが、最後の年に教員になろうと教育実習に行き、教師を目指すことにしました。

 特別支援学校の教師になったのも偶然です。東京都の採用試験を受けて、たまたま採用が決まったのがそうだったというだけです。これまで特に障害児との接点があったわけでもないのですが、自然と「やってみたらできるんじゃないの」と気楽なものでした。
 でも実際に勤めてみると、初めて担当したのがとても緊張の強いタイプの子で、どう扱ったらいいのか本当に悩みました。そのときふと、他の先生はどうしているのだろうと、周りをみたら「先輩の先生もわかってないんだ」ということに気づいたんです。それで一気に肩の力も抜けて、先生も子どもたちもみんな一緒に悩みながらやっていけばいいと思うようになりました。

 他の特別支援学校に勤務した後、普通校にも勤めましたが、一人ひとりと深く接する特別支援学校とは異なり、子どもたちとは広く浅くという関係性で、水が合いませんでした。クラス全体をいかに動かすかという観点で動くので、特別支援学校とは手法が全く違います。やっぱり私は、一人ひとりを大切にする教育がいいと、再び特別支援学校への異動の希望を出しました。

──その後の教員生活について教えてください。

 次に勤務したのは、知的障害の子どもたちが通う特別支援学校でした。3人の教師が1クラスを受け持つという複数担任制だったのですが、このときに一緒に組んだ先生とは馬が合わずに大変でした。子どもの気持ちを尊重しないで命令して動かそう、体で覚えさせるという教育だったんです。昔はそうした教育がまかり通っていました。ここではずいぶんと激論も交わしましたね。

 子どもたちも上から押さえ込まれていると、やはりいつかは感情が爆発してしまうんです。パニックになって当たり散らして、それが家で起きてしまうと親御さんは本当に大変です。受け持っていた子で、家でパニックになり窓ガラスを割ってしまうということがありました。その子の家はアパートだったのでガラスの破片が落ちて下の人にケガをさせてしまうのではないかと、親御さんがそうした心配までされていたことが忘れられません。

 怖さや権力で押さえ込むのは子どもが幼いうちはできるのかもしれません。ガンッと大声で叱ればその場は収まりますし、子どもは言いつけを守ります。ただ、中高生になると力で押さえ込んでも意味はありません。ただでさえ思春期で難しい年齢なんですから。また、普通学校の生徒には、友だちとおしゃべりしたり、遊びに行ったりする楽しみもあります。でも彼らにはそういうこともできないのですから、たまった鬱憤はいつか爆発してしまうのです。

 この時代は、私にとってとてもストレスフルな教員生活でした。その後、また車椅子の重複の子どもたちのいる学校に異動し、さらに盲学校にも勤めた後、定年を迎えました。

──ありがとうございました。次回は、これまでのご経験がいかに福祉タクシー事業に活かされているのか、事業を続けられる上で困っていること、今後の夢などを伺います。