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福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。


●インタビュー大募集
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花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第68回②
リオン西多摩きょうだい会 代表 山下のぞみさん
学校ではコミュニケーションの取り方が分からず悩み、
家族の中ではバランスを取ることに集中した思春期を送る。

東京都生まれ。精神障害を持つ兄、知的障害を持つ姉、健常者の姉と父の5人家族の中で育つ。自分よりも常に家族を優先して成人し、生きづらさに押し潰れそうになっていた25歳の頃、「全国きょうだいの会(障害を持つきょうだいの当事者同士が安心して交流を持つ場)」の存在を知り、交流会に参加する。2015年、20代~30代のきょうだいの交流の場として「ファーストペンギン」、2022年、地元西多摩で「リオン西多摩きょうだい会」を立ち上げる。現在は福祉施設で介護の仕事に就きながら、定期的に開催される交流会や講演など幅広く活動中。社会福祉士、精神保健福祉士。
(※きょうだい 障害者の兄弟姉妹のこと)

取材・文 原口美香

―前回は山下さんの幼少期や、保健室の先生との出会いなどをお話いただきました。
今回はその後の学生時代のことから伺っていきたいと思います。

 保健室の先生との交流は小5の時に先生が転任してしまうまで続きました。最後の日、先生からゴリラのぬいぐるみをいただきました。本来なら一人の生徒にそんなことをしてはいけないのでしょうが、先生もそれだけ私を気にかけてくれていたんだと思います。

 その後は学校に行ったり行かなかったり、中学にもなるとだんだん不登校も増えてきてしまいました。一番大変だったのは月経の時です。母に教えてもらったという記憶がないので、多分年子の姉に処理の仕方を教えてもらったと思うんですよ。だけど一人で乗り越えられる問題ではなくて、時々失敗してしまうことがありました。するとそれが学校でからかわれる原因となり、いじめの対象になってしまいました。

 それでも普通高校に進学したのですが、人に対してどうコミュニケーションを取っていいのか分からなくなり、1年で通信制の高校に変わることになったんです。父は普通高校に入学した私のことをとても喜んでいたので、裏切ってしまったような気持ちがすごくありました。私まで父に迷惑をかける存在になってしまった。どうにかして自分のポジションを挽回させなければならないという葛藤が始まりました。

 家では7つ上の兄の問題が大きくなってきました。兄は普通高校を卒業できたのですが、就職したころに人間関係が上手くいかなくなってしまうんです。専門職になった今思い返すと兄には発達障害があったのかもしれません。でも、当時は診断がついておらず、兄の障害に気づくまでに時間がかかりました。父も長男だから頼りにしていたと思うし、まして障害があるとは思わないから、ちゃんとさせようと必死だったと思うんです。兄も気持ちはあるのに思うようにできない、社会に対応できないという部分がすごくあって、二人は次第に対立してしまうんです。男同士なので取っ組み合いのケンカになってしまうこともありました。やがて兄はアルコールで酔って問題を起こすことが増えてきました。

―家を出たいとは思わなかったのですか?

 それはなかったです。その頃、頼りにしていた年子の姉が専門学校に進学のため家を出ました。実際姉が一番大変だったんじゃないかと思ったんです。家はずっとこんな状態で、下には私がいて、一番踏ん張っていたんじゃないかと。姉にはやりたいことがありましたし、私は夢も描けていなかった。姉はもうこの家から卒業していいと思ったのです。

 私がこの家をどうにかしなければならないという思いが大きくなりました。父にとって私が安心できる存在にならなければいけない。そんなプレッシャーがどんどん加速していきました。

 ヤングケアラーの子たちは、自分が家族の中でバランスを取らなきゃいけないと思っていることが多く、バランサーとしての自分の立場を無意識に自覚しているんです。あの頃は意識していなかったけれど、私も相当我慢していたと思います。

―お姉さんが家を出られて、どんなにか心細かったかと思います。
次回はその後の山下さんの進路からお話を伺っていきたいと思います。

交流会では一人ひとりの声を漏らさないよう耳を傾ける。