メニュー(閉じる)
閉じる

ここから本文です

宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

見世物小屋とレジリエンス

 現在の児童福祉法は、第34条に戦前の児童虐待防止法(1933年10月1日施行)の趣旨を受け継いでいます。その一部を抜粋すると次の通りです。

第34条 何人も、次に掲げる行為をしてはならない。
一 身体に障害又は形態上の異常がある児童を公衆の観覧に供する行為
二 児童にこじきをさせ、又は児童を利用してこじきをする行為
三 公衆の娯楽を目的として、満十五歳に満たない児童にかるわざ又は曲馬をさせる行為
四 満十五歳に満たない児童に戸々について、又は道路その他これに準ずる場所で歌謡、遊芸その他の演技を業務としてさせる行為

 この条文を読むと、私の幼い頃の記憶にかろうじて残っている「見世物小屋」を思い出します。

 俳優であり芸能研究者でもある小沢昭一さんの『日本の放浪芸』(白水社、2004年)は、見世物小屋が1965年辺りまで日本各地で見られたと記しています。文化人類学者の山口昌男さんらとともに小沢昭一さんが設立した研究会である見世物学会によると、見世物小屋は歌舞伎をはじめとするわが国のさまざまな芸能を産み出したルーツの一つだそうです。

 見世物小屋の出し物に、多くの障害のある子ども・成年が登場していたことは広く知られています。その事実が、戦前の児童虐待防止法を受け継いだ児童福祉法第34条の一に反映しているのです。

 このような見世物小屋の芸人であった障害のある女性である大石順教と中村久子は、人生を自ら切り拓く生き方を追求した点で、これまでさまざまに取り上げられてきました(次を参照のこと。大石順教著『無手の法悦』(春秋社、1968年)、中村久子著『こころの手足』(春秋社、1971年)、中野恵美子著「自伝に見る障害女性の生き方-大石順教・中村久子」(雑誌『ノーマライゼーション 障害者の福祉』2010年11月号))。

 大石は大阪の堀江で芸者をしていた17歳の時、養父が起こした6人斬りの殺傷事件に巻き込まれて両腕を失います。大石は家族を養い続けるために、「6人斬り事件」の「生き残ったスター」として寄席の高座に上がり、受傷経験を語る芸人となりました。

 19歳の時に、カナリヤが嘴で餌を雛にやる様子を見て、口に筆を加えて文字を書くことを思いつきました。両手を失っても泣くことはなかった大石は、これまで芸事しか学んだことがなく、自分の思いや気持ちを表現する文字を知らないことを自覚したときに、「はじめて心の底から泣いた」と記しています。

 そうして、尋常小学校の先生に学びたい胸の内を訴えて文字を習う機会を得て、それ以降は「以前の自分とは全然違う者になっていた」と述懐しています。

 その後、寺で日本文学の古典を学び、結婚と離婚を経て出家しました。晩年は、宗教家、書道家、画家として多彩な活躍をみせ、身体に障害のある人たちのための相談所「自在会」を設立しています。

 飛騨高山に生まれた中村久子は、凍傷による突発性脱疽により、肘から先の両腕と膝より下の両足を失います。母は針の仕事ができるように厳しくしつけ、祖母から文字を習っています。

 父が病死した後、継父から虐待を受け、20歳の時に自ら見世物小屋に行く決意をして家を出ます。両手両足を失った「だるま娘」の芸名で裁縫や書道の芸を披露する芸人の営みを始めました。

 中村は、万葉集や古今集を心の支えとして愛読し、41歳のとき(1937年)、東京でヘレン・ケラーと会った際には、自ら縫い上げた人形を贈っています。戦後は見世物小屋の興行から引退し、執筆活動と講演活動を続けました。1949年身体障害者福祉法の制定を受けて1950年に発足した高山身体障害者福祉会の初代会長に就いています。

 これら二人の障害のある女性の生き様には、おいそれとは語り尽くすことのできない重みと深みがあります。私はひとまず、次の二点に注目しておきたいと考えます。

 一つ目は、彼女たちにとって言語・文字をわが物とすることには特別の意味があった点です。パウロ・フレイレが指摘する本来の識字教育にふさわしく、自分が生きる糧を学び、自分を取り巻く現実を批判的に考察し、自らを表現する力を培う言語・文字の学びです。

 単純に「国語を学習しました」という営みとは丸で異なります。例えていうなら、最近はやりの高糖度トマトの栽培方法のようです。水や肥料をやることを控えてストレスを与えると、トマトが一段と甘くなるという育て方です。

 自分と世界を分け入って考え、自分とこれからを洞察するための言葉に飢えていたところに、言葉と文字に係わる自主的・自覚的な学びがあり、それぞれの女性のエンパワメントにつながっていきました。

 もう一つは、彼女たちの居場所となった見世物小屋の意義です。

 先にご紹介した中野恵美子さんの「自伝に見る障害女性の生き方」が指摘するように、「見世物小屋の芸人たちは障害のある身体を人目にさらすことによって、生活の糧を得て」いました。

 花田春兆さんの『蟹の足音75』(鉄道身障者協会、1999年)は、この二人の女性は芸人としての営みに「誇り」を持ち、見る方も「生きるエネルギー」を感じ取っていたに違いないと言います。

 この指摘を受けて、中野恵美子さんも「今日、パラリンピックを観戦して鍛え抜かれた身体のアスリートたちに感動するのと似たような側面があったのかも知れない」と述べています。

 私は、これらの見解には同意できません。

 規律化された心身の働きであるスポーツと彼女たちの「芸」は全く異なるため、「パラリンピックを観戦した感動」と同一視することにはあまりにも飛躍があり無理があります。

 また、彼女たちが障害のある身体を人目にさらして「芸を見せる」ことは生きるためのやむを得ない手段であり、「誇り」を持っていたと評価することにも疑問が残ります。

 むしろ、当時の障害のある人に対する大きな社会的制約の下で、「見世物小屋」は障害のある女性が就業して社会参加することのできる数少ない足場であるとともに、見世物小屋の興行主と芸人による共同体的な生活の支え合いを形成していた点に計り知れない意味があります。

 彼女たちには、肢体不自由がありながらも結婚したライフステージがあります。この事実は、見世物小屋の暮らしに、家父長制的役割分業に縛られることのない共同体性のあったことを伺わせます。このような暮らし向きの中で、障害のある女性の生活自立が芽生えたのではないでしょうか。

 見世物小屋は、彼女たちにとって働きながら生活する力を形成する根拠地であり、そこを足場として言語・文字の学習によるエンパワメントが加わって、自らの人生を社会参加の充実に向けて切り拓く営みを展開していく運びが生まれました。

 つまり、見世物小屋は、彼女たちの生活困難と社会的制約を跳ね返していく舞台でした。見世物小屋は戦前の虐待防止法が指摘する「虐待の場」であっただけでなく、少なくとも二人の女性にとっては、レジリエンスを引き出すスフェアでもありました。

大箱の現代見世物小屋

 「世界の放浪芸」の見世物小屋だけあって、なかなかの大箱です。この興行主は、萬田銀次郎も顔負けの、相当の守銭奴のように思えてなりません。

【前の記事】

ワクチン難民

【次の記事】

寄生的金儲け