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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

アサヒカメラへのレクイエム

 1926年創刊の雑誌『アサヒカメラ』が2020年7月号(通巻1125号)をもって幕を閉じることになりました。事実上の廃刊です。定期愛読歴35年のカメラ小僧としては、一抹の寂しさと怒りを禁じ得ません。

 創刊号は、わが国における写真ジャーナリストの草分である成澤玲川が創刊の辞を、資生堂の社長であり写真家で日本写真会(1924~)の創設者でもある福原信三が「寫眞道」について、それぞれ語っています(同誌2006年4月号特別付録の創刊号復刻版による)。

 成澤の言葉から創刊の趣旨を読み解くと、第一次世界大戦後のわが国における「寫眞芸術」と「寫眞科学」の発展を期する雑誌であったことを伺うことができます。

 この背景には、わが国における写真人口の増加と写真工業の発展への期待の高まりがありました。前者に係わっては、アサヒカメラ創刊の同年に全日本写真連盟が結成されています。後者については、フィルムや写真機材のほとんどが高い関税のかかる輸入モノに依存していた「重石」が問題になっていました。

 創刊の辞の一節で成澤は次のように述べています。

 「寫眞界の行詰まり時代、出版界の不況時代、さうした時を選びも選んで、殊にそれが限られた讀者しか持ち得ない寫眞雑誌を創刊する。単なる算盤勘定でないことは明らかであらう。しかし赤ン坊は時季を選んで生れられない。」

 この雑誌が、発行部数と広告収入の減少に耐えることができず、創刊のスピリットとは裏腹に、算盤勘定から「歴史を閉じる」ことに追い込まれてしまったようです。

 最終号に、さまざまな写真家の「私とアサヒカメラ」という特集ページがあります。この中で、石内都さんの「危機の時代にこそ文化的なものは必要」と題する一文が私の眼に留まりました。

 「銀座のニコンサロンは終わる、リクシルの文化活動も終わる、そしてアサヒカメラも終わる。コロナは、これまでずっと曖昧にしてきたことを明快にしてしまったということもあるでしょう。日本では文化的なものがどんどん削がれていっているから、その一つの先端をはっきりさせたともいえるでしょう。」(石内都さん、同誌116頁)

 この7月号の表紙は、ハービー・山口さんのモノクロ写真で長髪のイケメン男子がブラックのニコンFを構えた作品です。1970年代の「男の道具」としてのカメラを彷彿とさせます。私は、この表紙そのものにアサヒカメラの終焉が表現されていると受け止めました。

 20世紀にカメラといえば「男の道具」でした。折にふれて子どもたちや家族の写真を撮るのは「お父さん」、学校の先生が理科や社会科の教材づくりに写真撮影するのは男の先生、小中学校の卒業アルバムづくりに運動会や修学旅行に同道する街の写真屋さんも男性と相場が決まっていました。

 私の父はライカマウントのキャノンのレンジファインダーカメラを使っていました。カメラに露出計もついていない時代に、光の向きと明るさを勘案して器用に使いこなしていた思い出が残っています。

 小学校の先生は、一眼レフが高価だった時代に「自慢のペンタックスSP」でモンシロチョウの卵から成虫に至る変態を写真に撮って教材にしていました。ペンタックスSPはファインダーが暗いから、昆虫変態の全過程の撮影にはさぞや苦労したでしょう。

 ボディもレンズも重い一眼レフ。合焦にはヘリコイドを回すマニュアルのレンズ。土門拳は新しいレンズを手に入れると、瞬時にピントを合わすことができるようになるために様々なシーンでピントを合わす練習を一日500回重ねたと言います。

 マニュアル時代のフィルムカメラをずっと使い続けてきた私は、1990年代の後半になって、新しい時代のオートフォーカス一眼レフを手にしてみたときがありました。もう「驚き、桃の木、山椒の樹」、浦島太郎の心境です。

 シャッタースピードは1/8000秒まで無段階で制御する電子シャッターとなり、瞬時にピントが合う。デジタルカメラになると、フィルムの制約がなくなりました。信じられないような高感度が実用域になり、夜景の撮影でもさほど苦労はいりません。

 フィルムは長くて1本36枚撮りでしたから、シャッターを無駄に切らないように1枚1枚集中して撮影していました。ところがデジカメはほとんど撮り放題。無駄玉はゴミ箱に放り投げて消去すればいい。

 野鳥の撮影は、動く対象にピントを合わせ続けるカメラの機能を使って連写すれば、「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」。ただの記念撮影なのに連写機能を使う御仁さえいて、高級機を使っていても「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という軟弱さ。

 入門機は、入門機ならではの機能が実に秀逸です。花マークだと背景がボケ、料理マークにするとマクロ撮影で料理の色合いが暖色系に少し触れた塩梅に上がります。

 背景をぼかす写真を撮りたいと相談されたら、被写界深度についての説明をすることは話がややこしくなるだけだから、「花マークで撮ればいいよ」でおしまい。絞りを開けて、シャッタースピードを上げてなんて、余計なことは言わない方がいい。

 ミレニアムを挟んだ20年間(1990~2010)、アサヒカメラには急速な技術革新に伴うカメラと写真の変化を知ることのできるアドバンテージがありました。

 ただし、その20年間はデジタルカメラが急速に進化する中で、ユーザーを振り回し続けた時代でもあります。私が釧路湿原に行ったとき(2014)に案内してくれたネイチャーフォトのプロは、「2000年以降、機材の購入に振り回されて散財したことは、死ぬまで女房に言えない(それくらい多額である)」とぼやいていました。

 しかも、カメラメーカーが先端技術を注ぎこんでカメラの画素数を上げると、データの読み込みや処理のために、記録媒体・パソコン・液晶ディスプレイ・プリンター等は軒並み高機能のものをそろえなければならない。これらのフルセットに付き合う気になるアマチュアは、ごくわずかでしょう。

 新しいカメラ機材に振り回された苦い経験はかなりの人が共有しているはずなのに、カメラメーカーやカメラ・フォト雑誌が、この点について反省したことはありません。この時代に、カメラ・フォト雑誌はメーカーの広告費への依存をさらに強め、多くの読者から乖離して自滅に向かう墓穴を掘り進めたと考えています。

 今や、「寫眞科学」の到達点は多くのユーザーにとって飽和しています。10年くらい前から、私は新製品のレポートに見向きもしなくなりました。新製品レポートを延々と続ける「写真家もどき」の文章には品性もなく、ただもううんざりします。

 一眼レフは今でも愛用しますが、使用頻度の高いカメラは撮像素子が1インチで24~120mm(フルサイズ換算)のズームレンズがついたコンパクトデジカメです。

 ポケットに入って、交換レンズを持ち歩く必要はない。液晶ファインダーは光学ファインダーと何も遜色はない。レンズ広角域の歪みはカメラ側のプログラムで見事に修正する。画質は十分。画像の扱いは、2000万画素を超えるフルサイズのデータよりもはるかに簡単。

 最近、私の周囲で一眼レフの使用者が見当たらなくなったので、ゼミの学生に自身と実家のフォト・カメラ事情を尋ねてみました。まず、子どもや家族の写真をお父さんが撮影してきたという学生は一人もいませんし、一眼レフはもちろん皆無です。「以前はコンパクトデジカメだったけれど、今や家族全員がスマホで撮るだけ」と言います。

 「女子カメラ」に一時魅かれてフォーサーズの一眼に手を出した学生も、スマホの画質の向上につれて「ほとんど使わなくなった」といいます。学生全員が写真をプリントすることは「誕生日の記念くらいで滅多にない」と、写真プリントもほぼ絶滅状態。

 以上のように、わが国における家父長的な写真文化の時代は終焉し、ほとんどの若者はスマホで十分と考えているようです。進化した高級デジタル一眼はアマチュアに必要な性能をはるかに超えて重くかさばり、訴求力を喪失しています。

 アマチュアの多くが高級一眼レフの代名詞である「1」や「1桁」ナンバーに憧れ、F2.8の「三大元」レンズをそろえようとする時代は二度と来ないでしょう。マイカーでかつて言われた「ヒラはカローラ、課長さんはマークⅡ、いつかはクラウン」と通底するようなカメラ・レンズ観から消費者が解放されるようになった現状は、まことに喜ばしい。

 この間急速に進化したデジタルカメラの普及機は、小型軽量で、カメラの自動機能はとても秀逸です。それは、老若男女にかかわらず、また、ロービジョン、肢体不自由や知的障害のある人も含めた写真表現の可能性を著しく高めました。この偉大な「寫眞科学」と「寫眞芸術」の転換点から拓かれる文化創造に向けた未来について、アサヒカメラは真正面から取り上げたことがあったのでしょうか。

 このように高度に発達した「寫眞科学」を土台に新たな写真文化を創造する可能性が広がったステージで、『アサヒカメラ』はメーカーの広告収入が減ったために廃刊するというのです。それは、石内都さんが言うように「文化的なもの」の削ぎ落としであるし、ただそれだけの雑誌だったのかといささか落胆してしまいます。

 最終号で「私とアサヒカメラ」を語る写真家16人の年齢をみると(今年の段階での年齢)、80歳代が6人、70歳代が6人、65歳以上70歳未満が2人、55歳以上65歳未満が2人という構成です。16人中65歳以上が14人。ここに登場するすべての写真家がすばらしい作品の創り手であるとしても、この年齢構成は次代とは無縁の雑誌だったことを端的に表しています。

 朝日新聞社には(「朝日新聞出版」じゃありませんよ)、成澤玲川が創刊の辞に掲げた課題の今日的な再構築とその実現に向けた議論を尽くす社会的責任があると思います。

創刊復刻号(右)と最終号(左)

 甦れ、アサヒカメラ!!!