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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

インクルーシヴな「笑いの世界」

 先日、桂米朝さんがお亡くなりになりました。その時丁度、大阪に滞在していたため、深い感慨に襲われました。文化としての上方落語を盛り上げるため、生涯をささげた方であり、噺家でありながら、無形文化財保持者(人間国宝)、文化功労者、文化勲章受章者です。

きつねうどん-大阪の真のソウルフード

 私の子ども時代のこと。土曜日の学校が「半ドン」で終わると、自宅で昼食を食べる時間帯にテレビで放映される上方落語と漫才を見てから、友だちと遊ぶというパターンがありました。このような時間の運びを多くの子どもたちが共有していました。公園で友だちと再会すると、「今日の米朝、めちゃおもろかったな」などと話が弾んだものです。

 4月3日の朝日新聞朝刊には、SF作家筒井康孝さんの桂米朝さんを悼む記事がありました。「教養にじむお茶目な師匠-落語家桂米朝さんを悼む」とあり、このお二人の対談をまとめた『対談笑いの世界』(2003年、朝日選書)の逸話で締めくくられていました。

 この書は出版当時に買い込み、大笑いしながら読んだことを憶えています。読み終えると、久しぶりに大阪本来の笑いの文化を堪能した満足に溢れました。目茶苦茶面白くて、品があって、教養があって、誰かを傷つけるような「笑い」では決してない。馬鹿げたことや可笑しなことをしでかしてしまう人間の、無限の多様性を包摂するような笑いの世界です。

 「大阪のお笑い」と「東京のお笑い」を対比させる議論がしばしばありますが、今日の本旨はこのような枠組みにおける「大阪のお笑い」ではありません。桂米朝なるものに表された笑いの文化についてです。

恩賜煙草の菊のご紋
-もらった人から1本いただいて吸いました

 前出の対談の書は、桂米朝さんが文化功労者となり、筒井康孝さんが紫綬褒章を受けた後の対談です。そこで、対談冒頭のタイトルは「文化功労者と紫綬褒章」。紫綬褒章の受賞で筒井さんは「恩賜煙草」が「出るかなと思うてたら、ドラ焼き三個でした」と言い、米朝さんは「わたしもこの間、実はドラ焼き貰うたんや」と。ここにいう「ドラ焼き」は皇室御用達の和菓子屋「とらや」の三笠です。

  • 筒井「菊のご紋入って」
  • 米朝「恩賜のドラ焼きや」
  • 筒井「半月形ですよね。二つに折ってある。ドラ焼きが三笠とは思わなんだ」
  • 米朝「あの形を三笠山になぞらえたらしい。で、そういう風流な名前をつけたんやけど、まあ言うたらドラ焼きやな(笑)」
  • 筒井「もし恩賜の煙草くれはったら、すぐに路上喫煙してやろうと思うてたんです。あそこ、千代田区やからね(笑)。咎められたら煙草見せて、この菊のご紋を何と心得る(笑)」

 このように対談の一部始終が、大阪漫才です。教養のある方向で話が煮詰まることはなく、必ず阿呆なところに話を持っていく。それが歌舞伎、チャップリンと新喜劇、マルクス兄弟からエンタツ・アチャコ、パロディと原典などの多彩で奥深い世界を展開しながら、すっとガスが抜けるように(屁をこくように)阿呆な掛け合いになっていくのです。

 これが、今風の「お笑い芸人」だと「お笑いなんだけど実は教養があるのです」と逆の方向に持っていこうとする。在京キー局で売れるようになると、すぐにニュース番組や教養番組のレギュラーになりたがり、所属事務所の営業戦略と毒にも薬にもならない「ニュース」と「教養番組」で視聴率だけは稼ぎたいテレビ局の利害が一致して、それがトレンドになってしまう。私に染みついた大阪のお笑い感覚でいうと、現在の「お笑い芸人」は「文化としての笑い」を知らないから「あくまでもお笑い芸人であること」に誇りをもてない、ただの阿呆に過ぎません。

 かつての大阪は、多様性を包摂する文化を都市の柱に据えていました。江戸時代は各地の産物が大阪に集積する「天下の台所」でしたから、全国各地の文化や言葉の多様性を包容できなければ、商いを成り立たしめることは決してできなかったのです。江戸時代は全国で最も武士人口の割合が低かった都市でしたから、支配権力に対する気兼ねも少なく、民衆同士の支え合いが成立しやすかった事情もあるでしょう。

 この点は、高度経済成長期において確認されています。大阪にある全国都道府県事務所を対象とする調査ですが、言葉について「大阪は方言を受容してくれるのでありがたい。東京のように標準語で話さないといけないという抑圧がない」とほとんどの都道府県事務所関係者が回答しています。

 また、1950~60年代に九州筑豊の炭鉱閉山から太平洋ベルト地帯の工場に移動を余儀なくされた労働者の調査もありました。ここで、「どの町が一番住みやすいと考えますか」との問いに、元炭鉱労働者の実に55%が「大阪」と回答し、他の都市と群を抜いての一番回答でした。つまり、故郷を離れた地域文化へのなじめなさを余儀なくされる人たちにとって、最も包容力のある都市文化を保持していたということになります。

 大阪の笑いの世界は、このようなインクルーシヴな地域生活文化の一環ではなかったかと考えます。そして、大阪の食べものの世界も同じように多様でした。

道頓堀のドラッグストアには、
押し寄せる「爆買い」用の袋詰めが

 例えば、先般店を閉じ、店ビルを中国資本が買い取ったということで話題になった道頓堀の「くいだおれ」。店先にちんどん屋風情の「くいだおれ太郎」が鎮座した、あのお店です。実はこのお店の構成は、1階が総合食堂、2階が居酒屋、3階が日本料理店、4~8階が割烹でした。串カツや粉もん(たこ焼きにお好み焼き)が主要なお品書きでは決してありません。

 かつて芝居小屋の中座やお笑いの角座のあった道頓堀は、実に多様な食を提供することによって「食い倒れ」の文化を発展させてきた街だったのです。織田作之助の『夫婦善哉』は、道頓堀界隈の食文化がどれほど多様で豊かなものであったかを活写した小説でもあります。

織田作之助『夫婦善哉』に登場する自由軒

 ところが、元ボクシング選手でタレントの赤井英和さんが「新世界系の串カツ」のテレビコマーシャルに出てからというもの、大阪のソウルフードは「新世界系の串カツ」であるかのように変質させられた感が拭えない。だから、多くの中国人を含めた観光客でごった返す道頓堀が「新世界系の串カツ」「たこ焼き屋」「ラーメン屋」に占領されたありさまを前にすると、私は「嘘やろ!」と叫びたくなるのです。

 先日大阪でタクシーに乗ったら、運転手さんは嘆いていました。「あんな衣の分厚い串カツを道頓堀で出してたら、昔やったら店すぐにつぶれましたで。あれ新世界のソウルフードで、大阪のもんとちゃいまっせ」と。まったく同感です。紅生姜の串カツとか天ぷらなんかは、街中の総菜屋さんとかスーパーで売っていたもので、道頓堀で食べるような代物ではありません。

青ポスト

 千日前から宗右衛門町にかけての堺筋で、懐かしい「青ポスト」を発見しました。速達郵便専用のポストで、以前はあちこちに普通に見かけたポストでしたが、今や全国に35か所しか残っていないそうです。それも、ファックスやメールの添付ファイルで急ぎの文書のやり取りが、できるようになったからでしょう。塗装は剥がれて塗り直されることもないのか、くすんだ色合いです。私には、この姿が現在の大阪の姿とダブります。

 桂米朝さんは、上方落語を通して、多様な人間のあり方を包摂する文化を最期まで守り発展させてきたお人ではなかったかと思い続けてきました。このような大阪の文化は、今や変質し、失われつつあるように思えてなりません。衣の分厚い串カツが幅を利かせるようになったように、面の皮の分厚いお笑い芸人や政治家だけが目立つようになったのではないでしょうか。