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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。
さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

学校に巣食う鬼畜たち

 神戸市の小学校では、4人の教員による暴力とともに、校長のパワハラと暴力の黙認のあったことが明らかになりました。

 教育学部の学生や院生に感想を尋ねると、まずは「信じられない」という言葉が返ってきます。教職大学院にいる現職教員は、「激辛カレーを食べさせ、車の上にのっているテレビの映像は、再現映像かと思っていたら、本当の映像だと知って心底驚いた」と言います。

 加害教員のボスである40代の女性教員は、被害教員のクラスの子どもたちをそそのかし、学級崩壊を画策していたとも報じられています。教育委員会と現校長が記者会見を開いた最中に校長が涙ぐむ場面は、校長としての責任の所在の希薄さを際立たせた光景でした。

 4人の問題教員の下品で餓鬼そのものの行為に対して、教師としてどうのこうのという前に、人間性が骨の髄まで腐り切っている感想を抱きます。このようなチンピラやくざの類が、どうして教員として採用されたのか、前校長時代から校内の実力者とされてきたのかも含めて、相当深刻な問題があったとみるべきでしょう。

 少なくとも、この事件を4人の加害教員と被害教員の間に閉じた暴力問題に還元することは許されることではありません。ミルグラム実験(アイヒマン実験)を再現するかのような問題の構造があります(ミルグラム実験については、2017年10月16日ブログ「ハンナ・アーレント『悪は陳腐である』」参照のこと)。

 パワハラ校長の権威への服従があり、気にいらない者を屈服させ、排除するための暴力行為を果てしなく実行していく。この背後には、教員による加害行為の訴えを抑圧し、暴力を黙認するという前校長の不適切な権限行使と、現校長の不作為がありました。

 そして、周囲の教員はものを言えなくなり、黙殺者になっていきます。外部の人たちは、せいぜい「雰囲気が悪い」程度のことなら気づくことができるかも知れませんが、黙殺を強いられた他の教員による「人の壁」が作られることによって暴力問題が明るみに出ないまま、「学校と職員会議の閉鎖性」に帰結したのではないでしょうか。

 前校長には、現場の教員に対し「裏切ったらどうなるか分かるやろ。完全に切る。だから誰についたらいいか分かるやろ」というパワハラ発言のあったことが市教委に報告されていたといいます(神戸新聞)。まるで暴力団の組長のような台詞になるところは、神戸だからでしょうか。

 そこで、神戸市教育委員会についても、パワハラ校長を指導監督せず、事態を黙殺容認した事実が今後明らかになるかも知れません。

 問題に深入りすることを極力回避し、社会的責任が問われることのない立ち位置でやり過ごそうとする「臆病な知性」による自己保身が、神戸市の教育委員会と学校現場にはびこっていたのかもしれません。この点について、神戸市教育委員会のガバナンス問題の究明は避けて通ることはできません。

 4人の教員による加害行為の中身を見ると、「いにしえの教室のいじめ」そのものではないかという印象を強く持ちます。現在のいじめの主流は、インターネットを介したものに移っているからです。

 今回の「教員による教室のいじめ」事件では、LINEを介したものも含まれてはいますが、今から20~30年ほど前の「教室のいじめ」の姿との相似を感じます。

 つまり、今回の暴力事件は、「教室のいじめ」が日常生活世界のありふれたシーンとなった20~30年前の子どもたちの、なれの果ての世代に当たる教員たちが発生させた「教室のいじめ」だと考えます。

 この20~30年の間は、バーチャルリアリティー(仮想現実)の中で、たとえばバトル系ゲームで暴力をふるって相手をやっつけていくことは当たり前になりました。暴力によって相手をやり込めることに快感を覚えるまでに、暴力への抵抗感が下げられている点も気がかりです。

 今回の4人の教員による暴力の発生の背後には、「教室のいじめ」を介した暴力・ハラスメントの世代間継承と連鎖を、現代の社会が構造的に産出し続けているという事態がありはしないのでしょうか。

 日大アメフト部の暴力事件や大阪府立桜宮高校バスケットボール部体罰自殺事件などの事件が、延々と続いている事実を想起します。それぞれの問題が提起する深刻な暴力問題は、社会的に克服されることなく、暴力事件の発生した限られた場所と組織の問題改善にとどまっているだけです。

 先日、文科省は2018年度のいじめ認知件数が54万3,933件で、児童生徒の自殺者数が82人増加して332人に達したことを明らかにしました。文科省児童生徒課が指摘するように、これらの事実があるからと言って直ちに「学校現場が荒れているわけではない」というのは的を射ていると思います。多くの先生方は、いじめ問題の克服に頭の下がるような真剣な努力を続けているからです。

 むしろ、あらゆるところに暴力が深く浸透し、不断に暴力が拡大再生産されている社会問題の解明にもとづく有効な対策をとらなければならないところまで、事態は深刻化しているように思います。

 ただ、今回の学校を舞台にした教員による教員への暴力事件がもたらす影響には、十分注意する必要があるでしょう。

 「公教育の閉鎖性」をやり玉に挙げ、営利セクターを含めた塾やフリースクールなどの学校教育への「参入の規制緩和」を図り、公教育を縮減・解体しようとする動きが加速する恐れがあります。「教育の多元化」によって、「教育サービスの質が向上する」なんてのは、おためごかしの幻想です。

 事態の本質は、子どもたちの人権を擁護できる学校教育のあり方が問われている点にあります。そのためには、子どもたちの意見表明権を土台に据えて、児童生徒の自治と学校運営への参画を保障することが必要不可欠です。

 そうして、学校運営をめぐる討議と民主主義を尽くす営みの中に、子ども、保護者そして教員の分け隔てのない参画を進めることによって、公教育の真の再建への展望が拓かれるでしょう。

川越祭2019

 この土日は、ユネスコ無形文化遺産である川越祭がありました。例年であれば、新米が出回り、「実りの秋」を祝うお祭りに感じるところです。しかし、今年は「災害の秋」という現実があまりにも重く、残念ながら、祭の賑いに一抹の虚しさを憶えます。