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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

地域社会の差別・偏見・特別視

 横浜市都筑区に開設予定の精神障害者グループホームに近隣住民が反対するのは、障害者差別であるとして、事業者と家族が紛争解決のための相談対応と斡旋を5月24日、横浜市に申し立てています(https://www.kanaloco.jp/article/entry-169984.html)。

 この8月末に、障害者支援施設やグループホーム等の住まいと暮らしのあり方にかかわる本を中央法規から出版する予定です。その最後の執筆者会議が神戸で開かれ、どうしてこのような反対運動が発生するのかを含めた問題の叙述を議論したばかりでしたので、改めて問題の深刻さを感じずにはいられません。

 グループホームや障害者支援施設の開設に反対する地域住民の頑なな運動は、全国各地で相次いできました。私見によれば、このような地域社会の現実は1970年代には岩盤のように形成されていましたから、わが国の社会が法則的に産出している構造的差別であることは間違いありません。

 反対運動が起こりがちな地域は、大手のディベロッパーが開発した敷地50~60坪の一戸建てが並ぶ住宅地が多いと指摘されています。この点は、数年前にグループホームの実情を全国各地に視察したときにも、全国で共通する問題であることを実感しました。

 閑静な住宅地に、住宅の購買価格に対応する一定の社会階層の家族が揃い、子どもたちへの教育熱が高く、「郊外型住宅地」に特有の地域と家族の問題がさまざまに指摘されてきました(例えば、若林幹夫『郊外の社会学-現代を生きる形』、2007年、ちくま新書)。

 しかし、昨今、一見すると障害者のグループホームや施設の建設に反対することとは正反対の動きも地域には見られるようになっています。人口減少のあおりを受けて賃貸住宅の入居率は下がる一方ですから、安定した家賃収入を確保する目的で高齢者や障害者のグループホームに手を出そうとする企業と大家が急増しています。

 このブログでも、この動向についてはすでに取り上げています。ただし、地方部における工場が海外移転を始めた1980年代の後半には、工場に働いていた従業員たちのアパートがガラ空きになったため、地方部ではグループホームをはじめたい大家さんは30年前から増えつつありました。

 このようにみてくると、一方では、郊外型住宅地を中心とする障害者の施設・グループホームに対する反対運動があり、他方では、安定した家賃収入の確保を目指した積極的な誘致がみられる現状にあるといえそうです。

 一見相反する動きのように見えますが、はたしてそうなのでしょうか。冒頭に紹介した神奈川新聞の記事には、反対運動をしている地域住民から「不動産価格が下がるのでは」という声が上がったと言います。

 東京都港区では、「青山通り」から一つ入ったところに児童相談所を建設することが発表された際に、地域の「ブランドイメージが下がる」という声を中心とした反対運動が起きています。

 社会福祉にかかわる何らかの施設設置に係る賛成と反対の声を寄せてみると、「不動産価格が下がる」「ブランドイメージが下がる」「安定した家賃収入の確保」と、中身の本質は軌を一にしているのではありませんか。人間と地域資源に対する一元的価値の支配が、徹底した障害者差別と社会福祉そのものへの軽視・特別視を不断に産出していると思います。

 人間と地域社会にかかわる多様で複数の価値を相互承認していく中で「共に生きる社会」を作ろうとするのではなく、自分が努力してたどり着いた経済的価値を基軸とするアドバンテージを守るためには、支配的な経済的価値を利することのない人間と社会資源は排除するというのがわが国の実態なのではないでしょうか。

 このような論理が法則的に働いている地域社会の現実を前に、それでも「我が事丸ごと」と言いますか?

 さいたま市でノーマライゼーション条例づくりをしていた時に、市で収集した事例の中に、次の事例(№520)がありました(一部抜粋です)。

「偏見という名の不幸せ。

 私の息子は特別支援学校の3年です。自閉症でコミュニケーションがとり難いので厄介です。その息子もこの春ようやく高校を卒業します。思えば長い長い12年間の学校生活を何とか無事に乗り切ることができました。彼自身の頑張りと、それを支えてくださった周囲のお陰で何とか無事に乗り切る事が出来ました。

 これは昨年末に息子と一緒に行った旅行でのお話です。卒業前の記念にと箱根に家族旅行に行きました。あいにく息子にとって最大の理解者の女房は体調不良で行くことが出来ませんでしたが、私と二人の娘も一緒に行って楽しい旅行でした。乗り物が好きな彼はロマンスカーや登山鉄道、ロープウェイや海賊船に乗るのが好きで、楽しみにしている旅行でした。

 ロープウェイに乗っているときに私たちの前の席にアメリカ人の若い女性と一緒になりました。その30才前後の女性は隣の日本人の若いカップルの片言の英語を聞きながら親しく話をしていました。その会話の中にも私の息子のことを少し気にしてくれ微笑みかけてくれたりしていました。しかし自閉症の息子はコミュニケーションが苦手なので折角の好意にも応えることが出来ないでいました。それでもロープウェイから富士山が見えたときにも指を差して息子に語りかけてくれたりもしました。 そしてロープェイが海賊船の乗り場について最後に息子が降りるときに、先にカップルたちと一緒に降りていたそのアメリカ人の女性がわざわざ息子を待っていてくれてドアを締まらないように押さえていてくれたのです。 これには私も感動してお辞儀をして感謝の言葉を述べました。

 そして、この聡明な若いアメリカ人女性の息子に対するさりげない心遣いに、感謝の気持ちとともに本当に障害者に対する理解を感じたのです。そこにはいつも日常的にしていることのような所作が感じられました。

 その楽しい旅行の帰りの埼京線の車内のことです。ロマンスカーを降りて新宿からの帰り、埼京線の車内は意外と空いていて家族そろって座ることが出来ました。 息子の隣の席も二人分くらいの席が空いていました。途中で行楽帰の中年の三人組の男女が楽しそうに乗ってきました。そして私達の前の席に二人座りもう一人の女性が息子の隣の席に座ろうとしました。ところが座る動作を途中で止め、息子のことを訝しそうに眺めてから席を座るのを止め、わざわざ遠い席まで移動して座りなおしたのです。 息子は普通に座っていただけです。足を投げ出すこともせず、だらしなく座っていることもしていませんでした(私が彼と一緒にいる時は細心の注意を払っています!)。

 この人たちに声を大にして言いたいと思います。いったい私の息子が何をしたというのですか!! 折角の息子との楽しい思い出が一瞬にして崩れ、暗い影が落ちたような気がしました。 この息子と家族旅行での行きのロープウェイのアメリカ人女性のさりげなくさわやかな心遣いと、帰りの埼京線の車内の日本人の心無い無神経な振る舞いは、私の心に残念な対比と悲しい落差として残っています。 日本人は普通を求め過ぎて何でも横並びを指向する余り、異端の物を毛嫌いする傾向があり過ぎるのではないのでしょうか? それは障害者に対することでも明らかですし、ホームレスや社会からやむなく離脱せざるを得なかった人たちへの冷たい扱いでも明らかです。」

 「普通」という名の一元的価値の本質は、経済成長に利する価値、資本蓄積の効率に資する価値にあるでしょう。この観点から人間と地域の社会資源を値踏みするのです。障害者差別解消法の横浜市における取り組みの真価に注視したいと思います。

神戸元町の洋食ゲンジのビフカツ・エビクリームコロッケ

 さて、神戸と言えば洋食。パリッと揚げたビフカツの芯はレア、コロッケはエビの身と香りの詰まったクリーミーなト~ロトロ。旨っ!!