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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

スポーツと暴力・ハラスメント

 高校野球が第100回記念大会を終え、東京オリンピックがいよいよ近づいている昨今、どういうわけかスポーツの世界の暴力や権力闘争の話題に事欠かなくなりました。

 日大アメフト部の危険タックル、女性体操選手への暴力とパワハラ問題、日本体育大学駅伝部監督のパワハラによる解任など、報道でもテレビのワイドショーでも大きく取り上げられています。この間の特徴は、スポーツ界の長老と目される人物が、名声とお金と権力にしがみつく「妖怪」のように登場するところにあります。

 従来なら、それぞれのチームや競技種目の世界に閉じられていた暴力やハラスメントの問題が、ここにきて表に引っ張り出されるようになってきた感があります。いささか逆説的ですが、オリンピックを控え、今後のわが国におけるスポーツの発展を考えれば、必要で有益な回り道でしょう。

 いうなら、虐待防止の取り組みと同じです。パンドラの箱を開けて数々の災いを出しつくし、暴力とハラスメントの発生構造を根っこから乗りこえていく取り組みが必要だからです。

 しかし、スポーツ界や競技団体に巣食う権力構造の問題には、はたして十分なメスが入っているのでしょうか。補助金の管理権限と使途や団体内部の人事権などをめぐる組織的な問題が、一連の不祥事の重要な発生要因であることはまず間違いないでしょう。

 ここでも、施設従事者等による虐待の発生要因と相似性があります。福祉現場で管理運営と経営の問題から発生する虐待やハラスメントの背後には、ほとんどの場合、お金と人事の絡む支配・抑圧の構造があります。

 このようにスポーツ界の構造的な問題が取り上げられようとしている中で開催された第100回全国高等学校野球選手権大会の報道には、残念ながら、まったくの時代錯誤を感じました。秋田県の金足農業高校の活躍を無条件に持ち上げはするが、ピッチャー吉田輝星選手の過剰な連投と投球数を真正面から取り上げた報道は希薄でした。

 複数のピッチャーを擁する大阪桐蔭がローテーションで勝ち抜いてきたのに対し、金足農高は吉田選手を頼りに決勝戦まで来たのです。決勝戦は、〈大阪桐蔭13‐金足2〉となりました。

 この決勝戦のあった8月21日の夕方、TBSラジオ「荒川強啓デイ・キャッチ!」中で、国際ジャーナリストの小西克哉さんは、「あれだけ将来性のある吉田選手に連投を強いる試合のスケジュールを組んで、もし、肩や肘を壊すことになった場合、朝日新聞社は責任を持つのだろうか」と指摘しています。

 その翌日、コンビニと駅の売店に足を運んで、読売・朝日・産経・毎日等の総合誌から、スポーツ報知・日刊スポーツ・サンスポ・デイリースポーツ等のスポーツ新聞、日刊ゲンダイ・夕刊フジを全部買い込んで、高校野球100大会の締めくくりの記事をどのように書いているかを確かめてみました。

 どれもこれも高校野球の美化一色で、もううんざり。とくに、大昔の決勝戦で「18回引き分け試合」から再試合を連投したかつての高校球児が、自身の経験を投影させるように吉田選手の健闘をたたえた記事には、辟易しました。まさに老害です。吉田選手を美化することによって、自らを美化しつづけるおぞましさを感じます。

 決勝戦の10日後である8月31日になって、高校野球の名門である桐生第一高校野球部の監督が暴力問題で解任されるというのも、100回大会が終了するのを待っていたようなタイミングで、一抹の不信が拭えません。

 しかし、かつての高校球児でもあった桑田真澄さんは、佐山和夫さんとの対談『スポーツの品格』(集英社新書、2013年)で、今から5年も前に、スポーツと暴力・ハラスメント等の問題を掘り下げて論じています。

 桑田さんの肘の手術で執刀医だったフランク・ジョーブ博士は、「小さい頃に肩やひじを酷使した選手は故障する確率が高い」ことを明らかにしていると紹介します。そして、アメリカの野球界ではプロかアマを問わず、投球数や登板間隔に制限がかけられ、監督やコーチはそれを厳格に守っている事実を指摘します。

 そして、「甲子園の優勝投手はプロ野球では活躍できない」という厳然たる事実(ごく少数の例外はある)は、スポーツ選手が消費されるビジネス化が進む中で、スポーツマンシップやフェアプレイ精神が「神棚に祀り上げられ」て、勝利至上主義の弊害に他ならないと主張します(60-91頁)。

 そういえば、元アスリートを自称する芸能人がスポーツ解説に使う常套手段は、勝ち抜くプロセスを感動のドラマに仕立て上げることです。過剰な練習やハラスメントを強いられて心身を壊し、消えていった大勢の選手たちの問題と向き合って報道することは、まずありません。

 ところが、桑田さんと佐山さんの対談によると、野球がわが国に伝えられた当初、「勝ち負けにこだわるな」がフェアプレイ精神とスポーツマンシップの根底に位置づけられていたそうです。

 また、第二次世界大戦における復員軍人が、野球の選手や指導者等としてアマチュア球界に復帰し、「練習量の重視」「精神の鍛練」「絶対服従」等の暴力を含む謝った指導のあり方が、旧日本軍の悪弊として持ち込まれたと指摘しています。この点は、しつけと虐待の問題と重なります。

 スポーツマンシップやフェアプレイ精神を柱とする本来的な「野球道」を提唱したのは、飛田穂洲(とびたすいしゅう、早稲田大学野球部の初代監督)です。彼は、昭和初期に政府や軍部による野球への統制が強まったときに、「練習量の重視」「精神の鍛練」「絶対服従」というキーワードを用いて「野球は強い兵隊を養成するのに有用である」と主張して、「野球を弾圧から守ろうとした」とあります(同書43頁)。

 この点については異論があります。私見によれば、このような飛田の変質は「野球を弾圧から守る」ことに目的があったのではなく、政治的屈服による典型的な「転向」(鶴見俊輔著『戦時期日本の精神史』、1982年、岩波書店)です。不合理な公権力に屈服する道を選択する精神を野球に持ち込んだのも、飛田だったとみるべきです。

 暴力とハラスメントによって地に落ちた「スポーツの品格」に対して、桑田さんは今日的なスポーツマンシップのあり方を、〈心の調和「バランス」〉‐〈尊重「リスペクト」〉‐〈練習の質の重視「サイエンス」〉から定義しています(桑田真澄/佐山和夫『野球道』、2011年、ちくま新書)。

 元高校球児であり、スポーツと体罰の問題について深い考察をされてきた桑田さんたちの議論を踏まえると、スポーツをめぐる不祥事が相次ぐ中で、高校野球だけが100回大会で美化され続けているのは、どうみても間尺が合いません。

 桑田さんは、早稲田大学大学院の修士論文の中で、プロ野球と東京六大学の野球選手に体罰に関する質問紙調査の結果を明らかにしています。ここでは、「体罰は必要」「ときとして必要」とする回答が83%にも及んだことを問題視しています。

 この調査の回答者は、日本の野球界のエリート層ですから、事態はまことに深刻だと考えなければいけない。大学という学校スポーツで体罰が容認されている事実は、学校や家庭における教育・しつけに、体罰を不断に産出する温床だというべきです。子どもたちへの体罰が不可逆的な大脳の損傷を招くという、友田明美さんたちの研究を真摯に受け止めるべきです。

 少年野球の指導者が、休日返上のボランティアで子どもたちに奉仕しているように見えるのは、実は全く違っていて、「むしろ、指導者のストレス発散に子どもたちが利用されている」(同書40-41頁)との指摘も重要です。

 ここには、家父長制的な権力構造がスポーツ界の文化として堅牢に築かれてきた問題あります。それが時代にふさわしい新しい指導法を学ぼうとしない長老の老害を招き、家庭や職場で家父長的な威厳を喪失している男性の指導者が、少年野球の付き添いに来ているお母さん方を前に威張ることによって、ストレス発散になっているのではありませんか。


試合前の練習-1塁側

 さて、近くの野球場では、少年野球の大会が開催されています。球場入り口付近の灰皿バケツの前で、タバコを吸いながら大声で少年選手たちに指示する「指導者」。選手のユニフォームだけでなく、付き添いのお母さん用のユニフォームをチームで作って着込んでいる姿。


試合前の練習-3塁側

 これから試合をするそれぞれのチームの試合前練習はとても対照的でした。一つのチームは、子どもたちにとって練習の目的が分からないような感じで、観客席から見ていても、体の動きに自主性や目的意識性が丸でありません。それでも、不思議なことに、子どもたちは大きな声だけは出しています。もう一つのチームは、試合前の課題を絞った練習のようで、子どもたちの体の動きがイキイキとしなやかに躍動していました。