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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

堺の事件から-暴力に関する閾値の低下

 今から2か月余り前、大阪府堺市で、あおり運転の末に前方の大型バイクに追突し、運転していた男性を死亡させた事件がありました。車の運転手は、100㎞近いスピードでバイクに衝突しています。殺人罪で起訴されました。

 報道によると、被告は時速60㎞で車を運転していたところ、大型バイクに左車線から追い抜かれた直後から加速し、約1㎞にわたってあおり運転を続けて車間距離を詰め、時速96~97㎞で追突したとあります。

 被告の車に搭載されていたドライブレコーダーの記録によると、追突直後、被告は「これで、終わりや」に続いて「終わったな」とつぶやいていると言います。警察の取り調べに対して、被告は殺意を否認しています。

 インターネット上では「確定故意」か「未必の故意」なのかついての喧々諤々の議論があるようです。道路交通法や刑法によって被告の法的責任をどのように考えるべきかという議論とは別に、私はこの事件を知ったとき、いささか背筋の凍りつくような思いに駆られました。

 この被告は、大型バイクに左車線から追い抜かれて憤り、頭に血がのぼりつめた瞬間、格闘系や犯罪系のテレビゲームの世界にワープ(瞬間移動)した可能性があるのではないかと。これは私の直感に過ぎず、被告が日ごろからそのようなゲームにはまっていたなどの、客観的な事実を把握しているわけではありません。

 しかし、大型バイクに追突した瞬間に、衝撃と衝突音があり、バイクから運転手がすっ飛ぶ姿が目に入るでしょうから、「これで、終わりや」「終わったな」とつぶやく被告の心の運びに、はたして現実吟味があったのかどうかは疑問です。

 つまり、立腹して興奮状態にあった間、彼はバーチャルリアリティの世界に没入するモードになって、相手を殺すミッションを遂行し完了したのではないか。それが「これで、終わりや」「終わったな」というつぶやきの正体であり、「殺害しようと思ったわけではない」との言葉につながっている可能性があると考えたのです。

 だからといって、被告の刑罰をいささかたりとも軽くしようとする意図は、私にはありません。刑罰や量刑のありかたの問題を論じているのではなく、この種の事件の発生要因を構造的に明らかにする必要がある考えているのです。

 被告には、「キレやすさ」もあったかも知れない。その他、さまざまな事件の発生要因を想定することができますが、ここではある種のテレビゲームのことがどうしても気がかりなのです。
 (とはいえ、インベーダーゲームと壁崩しをした大昔の経験を除き、私はテレビゲームやソーシャルゲームをする習慣を全く持たないため、学生から得た今日のゲーム情報によります。)

 YouTubeで覗くことのできるゲームの中には、格闘系や戦争系のゲームで人を殺していくものが普通に存在します。その他、ストリート系とか車系、犯罪系等と呼ばれる暴力ゲームがあります。たとえば、どこかの街中で、車で歩道を歩く人を次々はねていくゲームがあり、この映像には戦慄を覚えました。

 映像の中で次々と歩行者をスポーツカーではねていくゲーマーは、興奮気味に「き・も・ち、いい~!」と叫んでいます。そして、ゲームが終わると「お利口さんは、こんなことを実際にしちゃいけないんだよ~」と明るくしゃべって、アリバイまでつけ加えています。

 この事実に私が戦慄を覚えるのは、「ゲームの楽しさを知らないオジサンの戯言」ではありません。殺人行為に興奮して「楽しむ」という多種多様なゲームが子どもから成年に広がっている事実が、日常生活世界における「暴力行為の閾値」を間違いなく下げているのではないかという点を心配しているのです。

 心理学的にいうなら、暴力に関する「脱感作」の問題です。それが殺人系ゲームを通じて日常的に強化されている問題はありはしないのか。

 ゲームという「遊び」が展開される日常には、子どもたちの中でありふれたシーンとなっている「いじめの世界」が重なっています。すると、「いじめ世界」の現実と「殺人ゲーム」の仮想現実が交錯することによって、慈しみ合う相互関係よりも、暴力的なバトルを通じて勝ち抜いていくという関係世界だけが肥大化しかねない。

 前回のブログで紹介した桑田真澄・佐山和夫『スポーツの品格』(集英社新書、2013年)の中で、体罰が正当化される一つの文脈を次のように紹介しています。

 「体罰はつらかったけれど、そういうつらい体験をしたから強くなった」という考え方です。桑田さんは、競技スポーツで強くなることと体罰は無関係で害悪だと言い切ったうえで、そのような育ち方をしてきた人は、「体罰を否定すると、自分の成功体験も否定される」から体罰を正当化するのだと指摘します(同書、29-32頁)。

 これは「誤った成功体験」による「暴力行為の閾値」の低減です。このタイプの暴力連鎖の中では、「教育」や「指導」の場面で体罰をふるう側も、「殴ることは本当に辛かったが、愛の鞭だったらこそ、あの子は強くなった、立ち直った」なんて言うのです。ああ、おぞましい!

 疑問の向きがあるとすれば、厚労省の進める「愛の鞭ゼロ作戦」の重要性を知るべきです。次のページを参照してください。

 虐待という慈しみ合いの期待される日常生活世界に発生する暴力は、グレーゾーンへの着目とともに、暴力の芽を不断に産出する「土壌」の問題を考察しなければなりません。暴力とは一見無縁な姿をまといながら、暴力の芽を大きく育てる「肥し」となっているものが現代に蔓延しているのかも知れません。


栗の渋皮煮-今年も作りました!

 台風が接近する中で、毎年恒例の栗の渋皮煮づくりに集中しました。夜鍋仕事になりますが、このほっこりした風味ほど日本の秋味を感じさせてくれるものはありません。小生のレシピは、以前のブログをぜひご参照ください。