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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

ケアの実現を阻む政策の論理


 わが国におけるケアの現実には、不合理な線引きや差別化が蔓延してきました。

 就労時間中に介護サービスは利用できない。民間企業で働く能力のある人であっても、食事・飲水や排せつの介助を受けることができず、就労自立を展望できない。職場勤務だけでなく、自宅就労でも勤務時間帯は介護サービスを受けられない。この不合理は何のためにあるのかまったく理解できません。

 全身性の不自由のある人の介護サービスでは、飲むための水はコップに汲んで飲水の支援も受けることができますが、花束の入った花瓶には水を汲まないし交換もしない。友人がプレゼントしてくれた花の枯れゆく様を寂しく眺めることしかできない全身性障害のある人にとって、これほど酷い「仕打ち」はありません。

 要介護度を6段階で始めておきながら、サービス利用が進むと介護サービスの枠外に置く「要支援」を設け、制度理念を「介護の社会化」から唐突に「介護予防」へと変更する。この朝令暮改に、合理的な説明は一切ありません。説明責任を果たさないまま、「言ったもの勝ち」を貫きます。

 高度な支援に係わる理論的・実践的力量を培うことが求められる「強度行動障害支援者養成研修」が、基礎研修12時間+実践研修12時間の合計24時間というわずか1日分。中高生の定期試験対策よろしく、「その場しのぎの一晩徹夜の勉強量」で専門性を培える訳はありません。

 その他にも不合理な「ケア」や「研修」の実例は枚挙に暇がありません。これらが放置されている施策の論理は、単純化してしまえば、「お金がかかるから無理だ」で一括りされてきたと理解して概ね差し支えないでしょう。

 訪問介護で、利用者が「庭の掃除」や「押入れの整理」など、ヘルパー本来の仕事を越える雑用に使おうとする問題があり、「職務範囲を限定する線引きが必要」だという論理を政策当局やマスコミがしばしば持ち出します。

 しかし、それぞれのクライエントの「生きることを支えるケアとは何か」を具体的に明らかにするアセスメントに応じて、ケアの職務範囲を個別に特定する営みが、本来のケア・マネジメントです。「飲水は支援するが花瓶の水は守備範囲ではない」という制度上の「一律の線引き」は、利用者を抑圧し生き辛さを生み出すだけで、本来のケアを台無しにしています。

 子ども・障害のある人・高齢者等が「尊厳をもって豊かに生きることを支えるためにどのようなケアが必要か」という議論を脇に放り投げたまま、経済効率の観点から福祉・介護政策を押し切るのです。

 このような今日の福祉・介護問題を改めて考えるために、丸尾直美著『日本型福祉社会』(1984年、日本放送出版協会)に目を通しました。

 この本の主旨は、次のようです。

 終身雇用等をうたい文句とする「日本型経営」によってアメリカに次ぐ経済大国となった「ジャパン・アズ・ナンバーワン」への自負心と、職場・地域社会・家族に残る暖かい人の絆は公的ケアを縮減するための日本ならではの「含み資産」であるという理解から、わが国は欧米型の福祉国家ではなく「健全な日本型福祉社会」を目指すべきだと提唱しています。

 この書の出版の直後に、中曽根内閣が福祉国家を目指す方針を捨て、シンガポールの首相から「ルック・イースト」と呼ばれました。

 介護保険制度の原案は1984年にできていたという情報を、この制度の立案に直接関与した方から伺っていますから、2000年の社会福祉基礎構造改革に向けた政策方針の表明の一つが、丸尾さんの『日本型福祉社会』であったことは間違いありません。

 この本を読み返してみると、「日本型福祉社会」を組み立てる前提条件のすべてが、今日では影も形もなく消失していることに気づきます。

 日本型経営は行き詰まり、GDPは中国に次いでドイツにも抜かれ、賃金水準は韓国に及ばない事態になりました。テレビの「日本はすごい」もの番組の弊害がそこかしこで指摘されています(日本の現実を正視しない、日本の一部の技術や製品の先進性をとりあげて肥大化した経済大国の一員であるという日本人アイデンティティを醸成する、テレビ局が日本企業の番組スポンサーを取り続けるための「よいしょ番組」にすぎない等)。

 企業と芸能界のハラスメント、少子高齢化による地域社会の著しい衰退と極点化、そしてDVや虐待に彩られる家族の増加。職場・地域社会・家族の現実は福祉・介護サービスの「含み資産」どころか、「大きな負債」です。

 同書の「まえがき」で、「『日本型経営』と『日本型参加』という長所を生かして経営を活性することはお手のものです。…(中略)…家庭や地域の近隣コミュニティにも職場にも、欧米諸国で失われつつある人間的暖かさが保持されて」いるから、

 先進国の福祉国家の陥った経済の停滞と「『英国病』のような先進国病に陥ることなく、人間的で同時に経済的にも健全な福祉社会を実現することが可能」であり、それが「日本型福祉社会」だと主張します(同書5‐6頁)。

 この主張は、今日では完璧なイデオロギー(虚偽意識)に過ぎません。わが国の現実から日本型経営や職場・地域・家族の「暖かい人間関係」のアドバンテージなど無くなっています。

 すると、日本型福祉社会論から出発して2000年の社会福祉基礎構造改革を断行して以来、すでに四半世紀経過して日本型福祉社会論にもとづく政策の前提条件が消失しているのですから、福祉・介護政策の抜本的な見直しの必要性は明白です。

 このようなイデオロギーにしがみついた福祉・介護政策を続けてきたからこそ、「異次元の少子化放置」が進み、家族や支援現場における虐待が跡を絶たなくなっているのです。

 しかし、ここで大きな疑問が生じます。丸尾さんの主張は「日本型福祉社会」という用語に集約されているとしても、これは果たして「福祉・介護政策」なのか。

 日本型福祉社会論は、自治体の都市経営論にも直結しており、ごみ収集、学校給食、庁舎警備、し尿処理等をとりあげて、民間委託による「市場型の福祉供給」を進めることが肝心であると括ります(同書、175‐178頁)。

 ところが、ごみ収集や学校給食等の例示は具体的であるにも拘らず、福祉・介護サービスのあり方については福祉ミックスによるレジームを提示するだけです。つまり、「ケアのあり方」についての具体的検討はまったくありません。

 率直に言うと、丸尾さんにそもそも「ケアのあり方」を検討する資格と能力があるとは思えません。

 北欧のノーマライゼーションやインテグレーションに関する身体障害者だけに限定した無理解と間違いだらけの紹介をする一方で(同書、11‐29頁)、参加型福祉の例証については「意見表明と参画の権利」の明確な北欧を周到に回避し、サッチャーリズムの席巻するイギリスの福祉レジーム(福祉ミックス)を取り上げます(同書、31‐51頁)。

 このような「ヨーロッパ先進国」の取り上げ方は、日本型福祉社会論に持っていくための恣意的な選択であるとともに、「ケアのあり方」の具体的検討については無頓着が貫かれています。

 要するに、福祉・介護サービスの供給方法を「福祉政策」として、ケアの特質についての検討を抜きにしたまま、ごみ収集・学校給食・庁舎警備・し尿処理と同列に置くのです。この議論の柱には、「経済効率」への価値づけしかないといっていい。

 だから、家族内部の素人やボランティアの提供する「サービス」に、営利セクターの提供する「サービス」は、経済効率を上げる観点から「公的サービス」を縮減するための「代替サービス」として同一視します。ケアの質は等閑に付すのです。

 営利セクターの放課後デイサービスやグループホームで、過大な報酬請求の詐欺や虐待が蔓延するようになったとしても、「公的サービス」を縮減できるのであればそれでいい。日本型福祉社会論における「社会福祉政策論」は、福祉・介護サービスのあり方をごみ収集やし尿処理の民間委託と同列に置いて、「人たるに値する生を支えるケアのあり方」を柱に据えた議論を深めることはありません。

 2000年の社会福祉基礎構造改革に結実した「日本型福祉社会」の構想は、その前提条件であり土台でもある日本型経営や職場・地域社会・家族のつながりを失い、地震で液状化した地盤の上で倒壊した家屋のようなあり様です。

 そして、すでに倒壊した家屋を枠組みに所与の福祉・介護サービスを続けるのは、「人間が尊厳をもって、健康で文化的に生きることを支えるケア」についての吟味検討をせず、脇に放り投げたままの「政策論」であることの証左に過ぎません。

 福祉・介護の「制度政策論」は、「人間が尊厳をもって、健康で文化的に生きることを支えるケア」を産出するための「産湯」としては重要ですが、それ以上のものではありません。魂を入れて議論しなければならない論点は、「ケアのあり方」でなければならない。

 ケアのあり方を柱に据えない政策論は、「ケアをより良くする管理運営」を柱に据えることのできない人が福祉・介護施設・事業所の経営者・管理者になることを容認し、「ケアに係わる専門性」のまったくない人でもたやすく支援施設・事業所の職員になることにつながっています。

 このような政策論・管理運営論・職員論がまかり通る支援現場の現実の下で、「施設従事者等による虐待の防止」に取り組んでいると言い張る向きが行政にあるとすれば、ただの欺瞞です。わが国の福祉は、「ケア」の吟味検討を核心に持つことのない抽象的政策であり、現実と乖離してしまうのは当たり前です。

北欧・ドイツの建築から学んだ住宅の建設‐柱のボリューム感がすごい

 日本で注文住宅の設計を手がけてきた一級建築士の方が、北欧とドイツの住宅の視察で現地に赴いたとき、スウェーデンの建築士から「日本の車や電化製品は、ち密な設計で製造されているのに、日本の住宅はどうして粗末なままなのか?」と質問されたそうです。狭い「ウサギ小屋」への批判というより、断熱性・気密性への無頓着(北欧の対比でわが国は半世紀ほど遅れています)と日本人が勝手に進んでいると勘違いしている耐震性についても「粗末」だと言われました。

 日本人の建築士は、自分の手がけてきた住宅がヨーロッパの基準からは著しく粗末であるという指摘に驚き、北欧とドイツの住宅設計について、一から勉強し直しました。すると、日本のハウスメーカーがセールスポイントにする多くの点で、ヨーロッパの住宅設計の基準からみると、嘘やガラパゴス化している問題があることに気づいたそうです。

 たとえば、耐震性はツーバイフォーにアドバンテージがあるのではなく、今日の先進的な設計にもとづく在来工法で、ツーバイフォーの3倍の耐震性を確保しながら、ツーバイフォーよりも安く建てることができるといいます。

 日本の不動産業界は、未だに「正直不動産」であるかどうかが問題となる現実があるからこそ、漫画やテレビドラマとなって注目されるのでしょう。「正直社会福祉法人」「正直老人ホーム」「正直障害者支援施設」「正直放課後等デイサービス」の漫画やテレビドラマの登場を期待しています。