メニュー(閉じる)
閉じる

ここから本文です

梶川義人の虐待相談の現場から

梶川 義人 (かじかわ よしと)

様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。

プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)

日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。

月がきれいですね

 今の時期は、十五夜と十三夜など、じっくり「月」を眺める機会に恵まれています。私は月を眺める度に、しみじみと秋の訪れを感じていますが、月に対する少し変わった印象も持っています。それは「虐待問題への取り組みに似たところがある」というものです。

 まず、月は自らではなく太陽の光に照らされてはじめて輝きます。虐待問題も、人々がそれなりに生きられ、平均寿命の長い国では注目されますが、生き残ることが難しく平均寿命の短い国ではあまり注目されません。

 とにかく生き残ることが先決で虐待問題は後まわしになるからです。「あなたの国には人権問題がある」という指摘は決まって、余裕のある他国からされることが多いのも頷けます。つまり、虐待は、取り組む余裕という「光」に照らされて初めて問題化するわけです。

 つぎに、虐待者には正論が通じないことが多く、支援者はあえて自己主張をしない(正論を振りかざさない)点も似ています。太陽が「私が!私が!」という自己主張の強さを象徴するのに対して、月は、あえて自己主張しない日本的な「粋」を象徴するからです。

 古来より日本人はこの粋さを大切にし、月を間接的に見ることにこだわってきました。たとえば、月にわざと雲をかけて描いたり、池に映る月をも愛でたりです。虐待問題への取り組みでも、支援者は手を替え品を替えあれこれ工夫をします。

 こう考えると、「粋」というより、月の名前に由来する「ルナティック;lunatic」が意味する「変人」のイメージに近いかもしれません。しかし、私が変人であることはさておき、虐待問題に取り組む人々を変人扱いするのは如何なものでしょうか。

 そこで思い出すのが、禅でいう「月落不離天(つきおちててんをはなれず)」という言葉です。月は西に沈み地へと落ちますが、それは存在しなくなったのではなく、見える範囲から外れただけに過ぎません。悟りというのも同じように、見えなくても人生とは離れることなく仏の世界(天)に存在している、といったほどの意味です。

 虐待問題に取り組む人々もまた、たとえ見えなくても(虐待問題に取り組むという看板を掲げていなくても)、ちゃんと存在はしているというわけです。そして、支援者が、当事者の目に見えるところだけを捉えるのではなく、目には見えない情緒的なところまでをも捉えようとする点も、何だか意味深長な気がしてきます。

 月は私たちからとかく情緒面と結びつけられるからです。思えば、夏目漱石は”I love you”を「月がきれいですね」と訳していますし、月を詠んだ短歌や俳句、和歌ともなれば、それこそ数え切れません。世界的ミュージシャンであるビートルズの名曲「Mr. Moonlight」だって、それこそ月への恋の願掛の歌ですし。

「虐待問題への取り組みと似ているって」
「なんて無粋な・・・」