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梶川義人の虐待相談の現場から

梶川 義人 (かじかわ よしと)

様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。

プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)

日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。

可愛い子の旅にレールを敷く

 同性の親子の高齢者虐待の事例を続けて何件か検討し、共通点があることに気づきました。それは、支配的な親とそこに依存して育った子どもの行く末、という点です。

 一番の問題は、子どもの主体性が十分に育たないことです。たとえ良い結果を出したとしても、それが親の言うとおりに行動した結果なら、自分の頭で考え判断するという肝心な部分が欠けてしまいます。

 むろん、親は子を支配しようなどとは考えておらず、子に良かれと思ってアドバイスするのかもしれません。それでも、親の指示が7で子の自由が3くらいでは、支配と依存の関係に変わりありません。

 なかでも気になるのは、親が学術優等で仕事でも成功を収めている場合です。子は親と同等かそれ以上になって当たり前だと見られますし、子自身もそう思って然るべきでしょう。同性ならなおさらです。

 まさに「カエルの子はカエル」ですが、親と同等かそれ以上になれないのに、なお周囲も自分自身も期待し続けると、挫折を繰り返すようになり、「優等生の息切れ」現象に陥ります。「十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人」」の諺を地で行くようなものです。

 一般に、子は幼いほどに周囲の大人のサポートが物を言います。たとえば、大人がよく勉強を教えれば、同級生より頭一つ上に出られる可能性は高いわけです。しかし、成長するほどに、自分自身の力が問われ、馬脚を現すことになります。

 もっとも、期待がリジッドでさえなければ、「鶏口となるも牛後となるなかれ」と発想転換できて、挫折は小さくて済みます。そして、生涯にわたって親を尊敬し続けるような美談にさえなるでしょう。しかし、それができないと、自己肯定感は下がり続け、虐待者への道に進みかねません。

 ですから、息切れを起こしている子に手を差し伸べることは、子が劣等感に苛まれるようになることを防ぐ絶好の機会となります。事実、未成年の子による親への家庭内暴力には、主体性を上手く発揮できない鬱屈した思いの暴発とみられる例が少なくありません。

 しかし、状況が好転しないと、子は仕事や結婚などのライフイベントでことごとくつまずいていきます。最悪の場合、危険なタイプの中高年の「引きこもり」になります。ここでも、親の子への思いが裏目に出ることがあります。たとえば、「自分たち亡き後、わが子が生活できるように」と、衣食住に困らないよう手配する場合です。

 これは一方で支援なのですが、主体性が育たぬままの子にとって、自己肯定感を最低化することにもなります。そのため、劣等感の裏返しの強烈な優越感を持ち、支配の矛先を自分に逆らわない者に向けてしまいます。

 親に対して暴言・暴力を振るったり、ろくに介護をしない一方で、精神的、経済的には依存していることを棚にあげて、行政やサービスの提供者には攻撃的でよくクレームをつける、そんな人物像によく表れています。

「敷かれたレールは行かない!」
「なにも海賊でなくても…」