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ルポ・いのちの糧となる「食事」

下平貴子(出版プロデューサー・ライター)

食べること、好きですか? 食いしん坊な私は、食べることが辛く、苦しい場合があるなんて考えたことがありませんでした。けれどそれは自分や身近な人が病気になったり、老い衰えたりしたとき、誰にも、ふいに起こり得ることでした。そこで「介護食」と「終末期の食事」にまつわる取り組みをルポすることにしました。

プロフィール下平貴子(出版プロデューサー・ライター)

出版社勤務を経て、1994年より公衆衛生並びに健康・美容分野の書籍、雑誌の企画編集を行うチームSAMOA主宰。構成した近著は「疲れない身体の作り方」(小笠原清基著)、「精神科医が教える『うつ』を自分で治す本」(宮島賢也著)、ほか。書籍外では、企業広報誌、ウェブサイト等に健康情報連載。

第118回 家族の食支援 
介護の振り返りと気づきから(後)

はじめに

 前回から全2回で、家族や友人の食支援について考えていることを書いています。
 この連載を始めたのは、個人的に大切な人たちが「食べたくても、食べられない」期間を経て10~30㎏も痩せて亡くなり、「なぜこんな時代に、飢餓の人のように痩せて死んでしまうのだろうか」と疑問をもったことがきっかけでした。
 食支援を取材して3年を経て、私が“食べることだったら、何か助けてあげられたかもしれない”と思ったのは間違っていたと気がつき、改めて別に残念に思うことがあります。
 家族や友人の食支援は、ポイントになる「2つのタイミング」と、それぞれに為すべきことがあったと考えているので、前回は第1のタイミングについてご紹介しました。今回は第2のタイミングについてです。

第2のタイミング
食べることを諦めたとき

 前回、私が介護した1人が「ある時期までは胸焼けがつらくても『“栄養(高栄養ドリンク)”を飲まなきゃ!』と強い意思をもっていた」と書きました。がんで療養中、体重が減っていくことを気にしてマメに測っていたことからも、痩せることは体力の低下につながり、治療の妨げになると危惧していたのが分かります。食べることが好きな人で、食べられるものを探し、できる限り口から食べてもいました。
 しかし、体重低下が10㎏、15㎏と進む頃には、発熱や悪寒、倦怠感、脱毛、手術の傷の炎症、ひどい下痢、呼吸困難などさまざまな問題が起こりました。「食べられない」よりもつらいことが次々に起こり、病人は食に対する意欲を失い、胃ろうからの高栄養ドリンク摂取に頼ることが多くなりました。
 抗がん剤治療は継続されていました。私は発熱と手術の傷の手当、清潔維持、脱水予防、呼吸困難を緩和するマッサージに気をとられていました。そして、口から食べられなくなってきたのを“やむなし”と思い、療養生活から「食生活」を遠ざけてしまいました。
 食べ物の話をするのを避け、自分も、病人の目の前で食事をするのをやめたのです。
 やがて再入院することになり、胃ろうで栄養をとることも徐々に拒む回数が増え、しばらく食を断ち、最期を迎えました。
 いま、残念に思うことは、病人が状況的に食べることを諦めたときに「食生活」を遠ざけてしまったことです。
 むしろそんなときこそ、家族だからこそ普通の食生活を続けることを心がけ、気が向けば、少しでも一緒に味わい、食の自分史を語り合うべきでした。
 食べることについてどんな気持ちか、そのときの気持ちをよく聞いて、医療的にどうであっても、病人の最期の食生活がその人らしくあるよう助ける。家族にこそ、それができたかもしれないのに、仕事と介護で精一杯になり、自分も生活を忘れていました。
 食べることだけではありません。病人がいろいろなことを諦めざるを得ないタイミングで、もっとよく気持ちを聞くべきだった。“医療”も“ケア”も関係なく、生活を続ければよかったです。
 いま自分の余裕のなさに気がつき、“食べることだったら、何か助けてあげられたかもしれないのに、できなかった”などと悔やむのは見当違いだと分かりました。
 医療者や介護職のようなケアは専門職に任せて、病人の伴走者、ときに代弁者でいることが家族の役割です。余裕を失い、治って欲しい気持ちも強いと、つい医療者や介護職の伴走者になり、病人を孤独にしてしまうこともあるのではないかと感じています。
 家族や親しい友人といった身近な存在は最期までともに“生活”すること。ただそれだけで病人を孤独にせず、支えになるのではないでしょうか。