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脊髄損傷を受傷して

松尾 清美(まつお きよみ)

年間約5000名の新患者が発生するという脊髄損傷。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。

プロフィール松尾 清美先生(まつお きよみ)

宮崎大学工学部卒業。
大学在学中に交通事故により車いす生活となる。多くの福祉機器メーカーとの研究開発を行うとともに、身体に障害をお持ちの方々の住環境設計と生活行動支援を1600件以上実施。
福祉住環境コーディネーター協会理事、日本障害者スポーツ学会理事、日本リハビリテーション工学協会車いすSIG代表、車いすテニスの先駆者としても有名。

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第55回 「第54回 復職後の日々」の解説

 帰宅して1か月ほど経過した1月に、復職するための第1歩として、講座の新年会に丸山さんお一人でタクシーを使って出かけられたそうです。「行く時は気が重そうでしたが、みんな、温かく迎えてくれたと喜んで帰ってきた」と書かれています。タクシーから降りるときや新年会会場で、周囲の人にやってもらうことの依頼方法や声かけなど、一人ですから心細かったと思いますが、一人で出かけて行けたことは、その後の自信につながったと思います。私は、不安を乗り越え、よく楽しんで帰って来られたと尊敬の念を抱きました。

 復職のために奥さんは、大学との折衝にも時間をかけられました。丸山さんの同僚の方の協力も復職の大きな支援になったようです。

 2月には改造工事も全て終わっており、学内のアクセスが可能になったこともあり、初めて大学へ行って学長に挨拶し、院生の修論発表会に参加したことが書かれています。院生の「先生の話を聞きたい」という求めに応じて講義を行うことになり、1時間40分に及ぶ講義をされたとき、奥さんが「よくぞここまで」思うように、心配をよそに、話が進むほどに話し方がなめらかになり、「呼吸訓練のリハビリができました」と言うほど、余裕で終了した喜びと感慨を書かれています。

 また、その翌日には教授会にも出席されており、「気分が重いんだ」と言いながらの出席でしたが、迎えに行くと、「たくさんの人に会って、みなさん、温かく迎えてくれた」とホッとした表情で帰ってきたことが書かれています。

 一歩一歩、気が重いという言葉で表されている不安を乗り越えられていることがよくわかります。こうして、少しずつ自信を獲得され、「2月末に症状固定の診断書を提出し、3月1日、職場に復帰」ということになったのです。

 「4月、大学が始まり、忙しくなりましたが、会議が続いても問題なくこなすことができました。私は日本画の研究生として入学手続きをし、夫が大学にいる時間は、私が日本画室で絵を勉強していることにしました。何かあっても、すぐに傍に行けるようにするためです」と書かれていますが、大学側の配慮と奥さんの向学心が上手く重なっています。

 授業準備は、自宅のパソコンで、自分で授業内容を準備し、参考資料を探したり揃えたりは奥さんが行うという分担で準備し、教室では、丸山さんの目の届くところに、流れに沿ってその資料を並べるところまで奥さんがやって、奥さんは日本画室へ行き、終わる頃教室に行き、後片付けするという流れで行われます。受傷後の授業の内容は、以前とは全く変わったそうです。その内容は、おそらく「命の重さを伝えたい」ということではなかったかと思います。

 授業のほかにも講演が増えていった様子が書かれていますが、講演後「生き恥をさらすという意識はありませんでしたか?」という質問を受け、「悲しいほどの質問でしたが、社会にはまだこういう考えが多いのだと認識し、逆にバネにしようと二人で決めました」とあります。車いすで生活していると、「かわいそうに」とか「大変ですね」などとよく言われたり、思われたりしますが、そう思うこと考えること自体が間違っており、実際とはかけ離れた言葉であり、言われたほうはどれだけ嫌な思いをするのか知らないのです。また、決してこれは他人ごとではないことも知って欲しいと思います。丸山さんが「私は障害者としてこれから生きるのではなく、障害を持った普通の人として生きたい」と言われていることに、私も賛同しています。

 8月には、総合せき損センターへ行き、身体や生活のチェックをしてもらうために、2週間の短期入院をしてリフレッシュされたようです。奥さんはナースたちの勧めもあり、この2週間は介護から開放され、姫路の娘さんのところへ行き、リフレッシュされたようです。

 10月のある日曜日に、「家はいいねえ、・・」と、奥さんが日記に書いているように、庭先で家族団らんの写真を見ると、何もできなくなったと涙を出されていた丸山さんの生活の落ち着きぶりと生活へ対する自信のようなものを感じることができます。入院中もそうでしたが、丸山さんはその考え方や気持ちの広さ、そして分析能力、優しさなどから、ナースをはじめ、いろんな方からの相談を受けていたのです。この頃になると、生活や仕事なども順調に進み、自信やゆとりなどを感じるためか、ヘルパーさんなどの相談や悩みを聞くなどで会話が弾んでいたようです。

 会話の内容は、利用者への思いが現行の制度の中で充分活かされない悩みであり、丸山さんの介護を受ける側の本音などで、丸山さんは「その思いを達成できるような事業所を立ち上げなさいよ。応援するよ」と、ヘルパーさんは「先生が退職後、一緒にやってくれるのなら、私たちやります」と、話が進んでいったと書かれています。