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福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。


●インタビュー大募集
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花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第47回①
NPO法人 ぼくのくれよん 理事長 重野美奈子さん
子どもの頃から人に興味があって福祉の道へ。
身体を壊したからこそ見えてきたものがあった。

重野美奈子(しげのみなこ)
NPO法人 ぼくのくれよん 理事長
横須賀市生まれ。小学生の頃から人に興味があり、福祉学科のある大学へ進学。神奈川県職員となり、現場で充実した日々を送っていた矢先、身体を壊して退職。結婚、出産を経た後、2008年に誘いを受けて、知的障害者の作業所「コミュニティハウス ぼくのくれよん」で現場復帰を果たす。初代立ち上げの方から引き継ぐ形で、2009年に所長となり、2014年3月1日NPO法人を登記。2019年には2つのグループホームを開業。知的障害者の個性を尊重し、よりよい生活を目指して、現在は計画相談事業、自立生活援助事業と広げ精力的に活動中。

  • NPO法人 ぼくのくれよん
    横須賀市三春町5-95-14

 取材・文:原口美香

―重野さんが「福祉」と関わるようになったきっかけを教えてください。

 小学生の頃から人に興味があって、偉人伝をよく読んでいました。その中でもヘレンケラーに関心があり、三重苦でどうやって生きるのだろうと思って。それで目を閉じて歩いてみたり耳をふさいで過ごしてみたり。家の中なので大丈夫だろうと、ぶつかって自宅のガラスを割ったこともあります。 従弟が自閉症だったこともあって、こういう障害もあるのだと知ったのもその頃でした。
 中学生の時には自分は将来何ができるのだろうと思い、横須賀市主催の手話教室に参加させていただきました。みんな普通の人なのだなと感じました。ただ見えないだけ、ただ聞こえないだけ、それが当たり前で暮らしているのだなと。
 大学に行くときによくよく考えて、やっぱり私は人と関わる仕事がしたい、児童相談所で働きたいと思って福祉科がある大学に進路を決めました。

 大学の先生に「今、自分に必要なものは何か、ボランティアをしてみたいけれど、どこに行けば勉強になるのか」と相談しました。すると「社会福祉を地域でやりたいのなら」と横須賀キリスト教社会館を紹介してくれたのです。戦後からやっている歴史のあるところで、ゆりかごから墓場までを実践している大きな法人さんでした。ボランティアに通うことになり、知的障害の最重度児の担当になりました。たくさんのお母さん方と知り合いになり、土日や学校がない期間は「うちの子も連れ出してくれない?」「ちょっと助けてくれない?」などとお声がけをいただくようになって、付き添い外出をすることになりました。ボランティアにもなったけれど、アルバイトにもなったのです。

 その中に定期的に会っている重い脳性麻痺の同い年の女の子がいました。その子のお母さんから頼まれて毎週一回関わることになり、それは大学の4年間ずっと続きました。

 卒業後は真っすぐ県職員となり、一番興味があった知的障害の施設に配属されて、「現場っていいな」と思いました。相談所もいろいろな分野があるので、成人の施設、児童の施設と両方経験させてもらって、さあこれからという時に、私、身体を壊したのです。

 ある朝起きたら、身体の左側が動かなかったのです。職場の先輩に「すみません、今日左手が動かないのです。どうしたらいいでしょうか」と言ったら「それは大変だ、病院へ行きなさい」と言われ病院に行ったのですが、原因が分からなくて何の治療をしても良くならない。病院もいくつか回ったのですが分からなくて、そのうちにどんどん動かなくなってしまって。結局9か月も職場を休むことになってしまったのです。

 休職している間に、私の中で考えが変わりました。仕事っていうのは、自分がいなくても代わりは必ずいるし、仕事はそういうふうに回していかなければならない。自分はその中の歯車の一つとして機能しなくてはいけないのだと。たまたま身体を悪くしてしまったけれど、おかげで麻痺をした人の気持ちが分かるようになりました。麻痺するっていう経験はなかなかないですよね。麻痺した方からその状況を聞き出すことは難しいですが、自分で体感すると分かる。そこに肉の塊があって、ただ重いだけなんです。

 ある時、大学の4年間会い続けていた子のお母さんが私のことを聞きつけて、連絡をくれました。「いい先生がいるから」と私を連れていってくれたのです。その先生に診ていただいたら、少しずつ動けるようになって治していただいた。どこの病院でも分からなかったのに、首の骨が折れていたことが判明しました。

 良くなって一度は施設に戻りましたが、無理が効く身体ではなかったので結婚を機に退職しました。

―壮絶な体験をされたのですね。
 次回は「ぼくのくれよん」に関わることになったきっかけからお話いただきます。

「ぼくのくれよん」で製作しているお菓子。
現在は18名の利用者さんが通う。