メニュー(閉じる)
閉じる

ここから本文です

福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。


●インタビュー大募集
「このコーナーに出てみたい(自薦)、出してみたい(他薦)」と思われる方がいらっしゃったら、
terada@chuohoki.co.jp
までご連絡ください。折り返し、連絡させていただきます。

花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第42回③ 片岡幸子  一般社団法人がんサポートナース 代表理事
緩和ケアと出会い、
「本当にやりたかったこと」に気づく

片岡幸子(かたおか さちこ)
一般社団法人がんサポートナース 代表理事/看護師
1967年生まれ。病院、保育園、看護学校などさまざまな現場での看護を経験しつつ、息子2人をシングルで育て上げる。2016年緩和ケア病棟を最後に 病院勤務を卒業。 2019年10月一般社団法人がんサポートナースを設立。がんと診断された方や、ご家族のサポート、大切な方を亡くされた方へのグリーフケア、および医療職向けの院外メンターほか、一緒にサポートができる看護師をつくるために、養成講座も開講。地域における医療のすき間を満たすべく、看護師も患者さんも、ともに人生を豊かにしていく関わりを目指している。

取材・文:毛利マスミ

―片岡さんが看護師になった経緯を教えてください。

 私の実家は長崎で、家は寿司屋を営んでいました。自営業ですので、裕福ではなく、きょうだいも4人いたので、大学も好きなところに行かれる環境ではありませんでした。本当は子どもが好きなので、保育士か幼稚園教諭になりたかったのですが、家の近くに学校はありませんでした。それでたまたま家の近くにあった准看護師の資格試験が受けられる衛生看護科のある高校に通うことにしたんです。高校卒業後は正看護師になるために、奨学金をもらって宮崎にある全寮制の看護学校に進み、20歳で正看護師の資格を得ました。私は2年間奨学金をもらったので、指定病院に2年間勤めると返済免除となるため、卒業後は神戸の病院に勤めました。
 私には、宮崎の学生時代から付き合っているボーイフレンドがいたので、奨学金返済の期限である2年後には神戸の病院は辞めて、宮崎に帰り、結婚。23歳と25歳で息子を生みました。夫のギャンブルや暴力が原因で、29歳の時に二人の子どもを連れて、実家のある長崎に帰りました。

 実家近くのアパートに暮らし、子どもと自分の生活のために昼夜問わず働きました。当時は3交代のシフトでしたので、夕方に帰宅し子どもたちに食事をさせて、仮眠したら夜中に出勤して朝までとか、夕方から夜中まで勤務したりしていました。
 子どもたちには、「自分でご飯をレンジでチンして食べてね」という生活をさせていました。
 放課後、遊びに行くなら、必ず家にランドセルを置くこと。絶対に兄弟二人で一緒にいることを約束して、お兄ちゃんは弟を必ず連れて出かけてくれました。

 子どもたちには、本当に苦労ばかりかけてきましたが、おかげさまで一度も問題を起こすことなく、育ってくれました。

―シングルマザーで夜勤もこなす生活は本当に大変だったことと思います。行政からの手当はなかったのでしょうか?

 私に収入がある程度あるために、行政からの手当がまったくもらえなかったんです。それも数千円といった額でなんです。子どもたちが大きくなると食費もかさむし、家の財政はどんどん苦しくなる一方でした。当時は本当に、毎日死ぬことばかり考えていました。一人で死ぬか、子どもたちも一緒に道連れにするかって。
 元の夫からは養育費ももらっていませんでしたし、夜勤も入れてフルで働いても貯金はゼロ。「看護師は給料がいいんでしょ」と、言われるのが本当にイヤでした。
そんな生活が何年も続いて、ある時、中学生になったお兄ちゃんの学校から「部活のユニフォーム代が届いてない」と連絡がありました。息子が私に、「お金が必要だ」ということを言えなかったこともショックで、私のなかの糸がプッツリと切れてしまいました。

 それで経済的に一人で子どもを育てていくことに限界を感じ、ネットで結婚相手を探すことにしたんです。その結果、長男が中2,次男が小6のときに再婚し、千葉県へ引っ越し、新生活がスタートしました。

 最初の1年は、本当の父親のように子どもにも良くしてくれました。でも、その方はメンタルがとても弱い方だったようで、仕事のストレスからどんどん様子がおかしくなっていったんです。

 そんな折、以前に登録していたエージェントから、千葉に新しく緩和ケア病棟を立ち上げるので働きませんか? とお声がけをいただいたんです。私は、大好きだった祖父をがんで亡くしていて、病院で様々な科を経験しましたが、どこにいてもなぜか祖父のことが頭から離れませんでした。また、沼野尚美さんというホスピスチャプレンとも呼ばれる方の本を読んだり講演を聞いたりして、いつかそうした仕事がしたいという気持ちを持ち続けていたんです。

 しかし、同じ県内とはいえ千葉は広くて。車で片道1時間かかる場所でしたが、それでも行きたかった緩和ケア病棟で、しかも立ち上げから関わることができるということでしたので転職を決めました。千葉に越してきてからは、私は保育園で働いていましたが、夫との生活が苦しく、仕事に行っている時間のほうが楽という状態だったので、それも転職の理由になりました。

 そしてその病院で、現在、法人の理事になっていただいた緩和ケア認定看護師でもある師長と出会うことになります。私は、2年間勤務した中で、200人くらいの患者さんと関わりましたが、緩和ケアを知れば知るほど、まさに看護の基本だと感じましたし、私がやりたかったことだと確信できました。

―ありがとうございました。次回は「がんサポートナース」立ち上げの経緯についておうかがいいします。

幼かった子どもも、いまでは成人し、片岡さんが49歳のときには孫も産まれた。