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福祉の現場で思いカタチ
~私が起業した理由わけ・トライした理由わけ

介護や福祉の現場で働く人たちはもちろん、異業種で働く人たちのなかにも、福祉の世界で自分の想いを形にしたいと思っている人は、実はたくさんいます。そして、今、それを実現できるのが福祉の世界です。超高齢社会を迎え、これからますます必要とされるこの世界では、さまざまな発想や理想のもとに起業していく先達が大勢いるのです。そんな先達たちは、気持ちだけでも、経営だけでも成り立たたないこの世界で、どんな思いで、どんな方法で起業・トライしてきたのか、一か月にわたって話を聞いていきます。行政への対応や資金集めなど、知られざる苦労にも耳を傾けながら、理想を形にしてきた彼らの姿を追います。


●インタビュー大募集
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プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第66回②
石井光生  NPO法人マナビファクトリー理事長
「裕福な家の子」しか、自分の可能性を
広げることができない社会のしくみを変えたい

石井光生
NPO法人マナビファクトリー理事長

1987年生まれ。「勉強が苦手」だったが、高校時代に「学ぶ」楽しさに目覚め教員免許を取得。大学卒業後、高校教師を6年勤めたのち、学習支援をおこなうNPO法人に正社員として6年勤める。その後、2021年にNPO法人マナビファクトリーを開設。生まれ育った環境で子どもたちの将来が左右されることのない世界を目指し、貧困を学習支援と居場所支援で支える「無料塾」を運営している。

 取材・文:毛利マスミ

―前回は、マナビファクトリーが無料塾であることのこだわりなどについてお聞きしました。今回は、石井さんが学習支援を志した道のりなどについてうかがいします。

―学習支援という教育に関わることを志すきっかけは、どのようなことだったのでしょうか?

 私は正直、子どもの頃は勉強が苦手な子だったんです。小学校ではそれなりにやってきたのですが、中学生になるとわからないことがどんどん増えてきて、自分でも勉強で遅れをとっていることがわかりますから、ひょうきんさとか部活をがんばるとか、そうした勉強以外のところで自分の存在価値を高めていたんです。でも、いざ高校受験となると、「進学する学校の選択肢がない」というところに追い込まれました。それで、いわゆる底辺校に通うくらいなら、面接重視で入学できる全寮制の高校に進学しよう、ということになり、生まれ育った奈良県を離れ、島根県の高校に入学しました。

 そこは「日本で一番小さい全寮制高校」といわれるキリスト教系の学校で、生徒の数も少ないですし、学力も本当にまちまちでした。学びが追いついていない生徒には、英語を中1の最初から学び直しをしてくれるなど、教育がとても私の肌に合った。それに、同室となった先輩がとても面倒見がよくて、「お前、こんなこともわからないのか」と教えてくれるんです。そうこうしていくうちに、誰かのちょっとした助けがあることで、「興味の幅が広がる」ということや「自分ができることが増えていく」ことを知り、そうした「知の積み重ねがとてもおもしろい」という経験を重ねたんです。
 それと学校では、テレビやインターネット、マンガや携帯電話が禁止でしたので、外部の情報を得るためにはイヤでも新聞や図書館の本を読まなくてはならなくて。書物を読む・調べるといった習慣が自然にできていきました。そうしたなかで、「自分には知らないことが、本当にたくさんある」ことを知り、「大学に行きたい。社会のことをもっと知りたい」と、大学進学を決めました。

 東京の大学に進みましたが実家からの援助や、奨学金を借りてはいたものの、東京で一人暮らしをする生活費や学費を工面するためには稼がなくてはなりませんでした。それで、時給がいいという理由だけで、塾講師を始めました。そこでは中学生クラスを受け持ったのですが、まず思ったのが「私みたいな子が、たくさんいるんだな」ということでした。かつての私のように基礎が学びきれていない子が本当に多い。でも、自分も通った道ですから「そうだよね、ここでつまずくよね」という具合に、子どもたちの「わからなさ」が手に取るようにわかるんです。ですから、だんだんに「石井先生の教え方はわかりやすい」みたいな話も上がってくるようになりました。そうすると、私自身も教える楽しさやよろこび、おもしろさも出てきて、「勉強が苦手な子に何かできるような仕事がしたい」と思うようになりました。

―大学では教職課程を修め、卒業後は神奈川の高校に赴任したそうですね。その後、学校を退職して学習支援を始められるまでのいきさつを教えてください。

 4月に学校に新卒で入ると、いきなり1年生の担任を受け持つことになりました。これはものすごく大変な経験だった反面、とてもやりがいもありました。勉強が苦手な子が多い学校で、いつも追試ばかりという子も大勢いて、私は社会の教師でしたが、英語や数学もふくめて「放課後に残って勉強しよう」とクラスの子たちに声がけをしたんです。すると、最初は「やる気はあるけど、勉強ができない」という4〜5人が参加するだけの小さな放課後勉強会だったのが、「参加したら点数が上がった」という口コミが広がり、やがてクラスの半数くらいが残るようになりました。やんちゃな子には、半ば強制的に参加をうながしたりもしましたね。うちの学校は追試になると、その度にお金がかかるシステムでしたから、「追試にお金かけるのは、もったいないだろう」と。

 通称「石井塾」と呼ばれて、私自身やりがいを感じていましたが、悩みもありました。学校は私立でしたので、たとえば家庭の経済状況で辞めざるを得ない子も出てくる。離婚やお父さんの急死などで、泣く泣く退学する子や本当は大学進学したいけど、経済的事情から就職しなくてはならないという子たちもいて。生徒たちを指導するなかで、個人の力ではどうにもできないことに葛藤を感じ始めたんです。
 私自身が、高校生時代に自分の将来の選択肢や可能性を広げる経験をしたのに、自分の目の前では、真逆の光景が展開しているんです。経済的な理由で退学する生徒は毎年3〜4人はいて、それは子どもたち本人のせいではないんです。
 世間には、「福祉的な支援を受けるのは甘えだ」と、おっしゃる人もいます。そして実際に、どんなに貧しくても努力を重ねて大学まで通い、自立している人も大勢いらっしゃいます。でも、そうしたことができる「ストイックな子」や「裕福な家の子」しか、自分の可能性を広げることができないの? それっておかしくない? と思ったんです。「私立ではなく、都立や県立高校に進学していたら、お金だってなんとかなったんじゃないか」といってしまえばそれまでですが、でもいま、目の前にいる子にそれを言っても意味はありません。

 自分の努力じゃどうしようもできないことや、よほどの努力をしなければできないことを、世の中のしくみとして変えることはできないのか、ということを考え始めたのもこの頃のことでした。そうすると、だんだんに無力感ばかり抱くようになって。さらに一般的にいわれている教師の働き方、たとえば拘束時間の長さなどもあいまって、6年間勤めた学校を辞めさせていただきました。正直にいうと、高校教師を辞めたのは、けして前向きな姿勢からではないんです。でも、もうこれ以上私の気持ちも体力的にも仕事を続けることはできませんでした。
 忙し過ぎたし、次の転職活動をする間もなく退職したので、仕事を見つけるまで 1、2か月ぐらいのブランクがありました。私には奨学金返済義務もありますし、無収入の生活のしんどさもこの間に味わいました。そんな不安を抱えた生活のなか、私を支援してくれる人が現れて、その出会いが私を学習支援の道に導いてくれたんです。

―ありがとうございました。次回は石井さんのライフワークともいえる学習支援の仕事との出会いなどについておうかがいします。

子どもたちの学びを見守る石井さん。支援を受けている子どもたちが学びを通して世界を広げ、いつか支援する側になってほしいと語る。