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和田行男の婆さんとともに

和田 行男 (和田 行男)

「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。

プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)

高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。

平成終感


 今日、2019年4月30日平成が終わります。
 同時に、うちの三番目の8回目の誕生日でもあり、今夜は誕生パーティーです。
 自分の誕生日が、ひとつの時代の最終日と重なるなんて、何か持ってるんでしょうかねぇ。

 日常的に西暦を使用する僕にとって元号が何であろうと、あまり関係がないのですが、先日昭和生まれ40歳代後半の同僚の話を聞いていて「なるほどな」と思ったのは、何かの書類の記載が「M・T・S」だったとき、昭和生まれは「S」に○をつけますが、そやつは、左の「T」や「M」に「年寄り」を感じていたそうです。

 そこに「H」がきて「M、T、S、H」となったときは、まだそうも思わなかったようですが、このたびそこに「R」がやってきて「M」が去りし時代になってきた今「T、S、H、R」となり、「S」の左側に「年寄り」を感じていた自分が、いつの間にか左から二番目になると。
 つまり、自分が年寄りになってきたってことなんでしょうかね。

 僕は、そんなことを元号表記から感じたことがなかったので、もう可笑しくて・可笑しくて。
 みなさん、そんなこと感じた事ありますか。
 さて皆さんにとって「平成」はどんな時代でしたか?
 僕にとって「平成」は「まるごと介護業界」でした。

 1987年・昭和62年介護業界に入界した翌年に平成がスタートしたので、平成は元年から終年まで「まるのみ介護界」でしたね。
 一年に一度でも会う・会話をする他人の中で、昭和時代に知り合った友人・知人は、学生時代の同級生と国鉄時代の仲間ぐらいで、ほんのちょっとしかいなくなりました。

 ほとんどが平成に入ってから知り合った者で、つまり同業界の人間で、そう考えると「平成」は、今の僕にとって「とても大事な人たちに出会った時代」なんですよね。

 テレビ番組で初めてカメラに付かれて取材を受けたのは、1988年・平成元年で、NHK地方局が「痴呆性老人処遇技術者研修受講者」として紹介してくれたことです。
 これもたまたま僕が第一期受講生だったということなのですが、研修なのに、それで緊張したことしか頭に残っていません。

 それまでにも学生時代に「お召列車」の写真を撮りに行ったときに取材依頼を受けたことがありましたが、学校を休んで行っていたので「勘弁してください」とお断りしました。
※お召列車とは、天皇が移動する際に走らせる列車で、昭和40年代までは蒸気機関車が目いっぱいおめかしをして御陵車を引っ張っていました。このときは宮崎県植樹祭で昭和天皇を乗せ、日豊本線と日南線を走りました。

 その後、ひょんなことから1999年・平成11年グループホームの施設長を拝命したのですが、これ又たまたま東京都内で初めての公的グループホームだったことと、他に取材できるところがなかったので、僕に取材が殺到しました。
 その時に取材者たちが、うちのグループホームで暮らす婆さんの生きる姿を見て、それまで描いていた痴呆症(現認知症)の状態にある人たちの姿とはまるで違うことに驚かれ、愉しまれ、そのことによって「次から次へ」とつながり、その流れが2012年・平成24年NHK「プロフェッショナル~仕事の流儀~」へとつながり、その流れが2017年・平成29年「注文をまちがえる料理店」へとたどり着きました。

 しかも、その取り組みを令和元年になる今年6月、世界的な「カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル」へ出品し、さらにその趣旨を世界中にばらまこうってんですから、壮大になってきました。これも平成のご縁で成せることです。

 文章を書いて他人に読んでいただくことに無縁だった僕が、本を最初に出版したのは、2003年・平成15年の著書「大逆転の痴呆ケア」(中央法規出版)でした。
 最初に話を聞いたのは、2002年・平成14年のお正月。いきなり宮崎和加子さんから呼び出しを喰らい、「あなた面白いから本を書きなさい」って。
 書けども書けども、自分で読んでまったく面白くない文章に呆れました。でも、投げ出すことはなかったことが生きたんでしょう。あるとき「★」が舞い降りてきたんです。自分でも驚きました。

 今でも舞い降りてきたときは、公募企画書でも原稿でも、一気に書き上げられますね。こないときはダメ。飲んで歌ってる方が、僕だけじゃなく周りの方々にとってよっぽどステキな時間になります。
 人前で話すことが苦手だった僕が1974年・昭和49年国鉄に入職し、その後労働組合の活動をするようになり、演説など人前で話す機会が増え少しは慣れもしましたが、それでも苦手は苦手。

 未だに緊張しますが、人前で講義や講演をするようになったのも、平成6年頃のヘルパー講習会が最初だったように思います。

 こうして思い返すように「僕の平成」を考察すると、今の僕に在ることは、平成で出会った人たちによって成せたことであり、何よりも「平成で得たこと・ひとと共に」を開花させてくれるボスに出会えたことが、僕にとってはデカイことでした。親しき周りの連中もそう言います。ありがたいことです。

 いろいろあるのは、いつの世も世の常。
 平成最後の日に、「平成時代のいろいろ」から未来へつながることを見出して「平成、ありがとう」と言えたらステキですよね。
 大切な人との別れだって、大切な人だったと思えることへの出会いですもんね。

追伸

 研修会で離島に出向き、そこに海で船釣り好きなボスを同伴し、偽物の餌に見せかけたモノで魚をだまし釣ることを教えてもらったのも2011年・平成23年ですが、おかげさまで離島の人たちとの出会いをいただけました。
 その離島の研修会で僕の話を聞いた人が、事情あって本島で働くようになり、事情あって上京することになり、今現在僕のところで働いてくれていますから、ご縁ですよね。

写真


これが初めての釣り、新上五島町でのぼくです。

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