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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。
さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

出津救助院とド・ロ神父

 長崎に出向いた折、潜伏キリシタン関連の世界遺産を訪れました。中でも、東シナ海に面した西彼杵半島の外海地域にある出津救助院とド・ロ神父の取り組みには、いささか感銘を受けました(詳しくは、https://shitsu-kyujoin.com/を参照ください)。

出津救助院

 大浦天主堂における潜伏キリシタンの奇跡的な発見は、当初、明治政府によるキリシタンへの徹底した弾圧を招きました。しかし、欧米各国からのキリシタン弾圧への非難と信教の自由の要求から、1873年(明治7)にようやくキリシタン禁制は終息しました(この時点では、「信教の自由」を法的に認めたのではなく、「黙認する」ようになっただけ)。

 こうして、明治初期のカトリック教会は、発見された潜伏キリシタンをカトリック教徒へと正しく導くとともに、政府の弾圧による多大な犠牲者をどのように守り抜くのかという課題に向き合うことから始まっています。

 大浦天主堂では、プチジャン司祭の下で、潜伏キリシタンを正しく導くための教理書・祈祷書づくりを目指していました。この目的のために印刷技術を習得して来日したのが、フランス貴族出身のド・ロ神父です。

 ド・ロ神父は、外海の潜伏キリシタンを導くために司祭に任じられて赴くことになりました。潜伏キリシタンは、豊臣秀吉のキリシタン弾圧以降、隠れ伏して信仰を守るための暮らしを送るために移り住んだ人たちが少なからずいます。そして、隠れキリシタンの暮らすことになった地域の多くは、やせた土地でした。

 西彼杵半島の大村湾側はゆたかな土地で、潜伏キリシタンのいない地域だったのに対し、東シナ海側の外海は、山が急に海に落ちる断層海岸のため、広い田畑や良港に恵まれないとても貧しい地域でした。

 この地域に赴任したド・ロ神父は、「この地域の人たちに必要なことは魂の救済ではなく、魂の宿る身体の救済である」と言い、外海の民衆のニーズに即した現実的で合理的な取り組みを追求し続けました。

 ド・ロ神父は、多彩な専門的識見と技術をもった人でした。ド・ロ神父が作成し、印刷した宗教書は、農漁民にも広く読めるように極力漢字を減らし、ひらがな綴りの分かりやすい文章に仕上げたものだったそうです。

 医療と調剤の心得もありました。ド・ロ神父は長崎や出津で赤痢や天然痘の流行があったとき、救護隊を編成して救済活動に当たりました。当時、赤痢による患者の死亡率は30~40%だった中で、ド・ロ神父が救護した患者210人中の死亡者数は8人、死亡率は4%にとどまったという事実が残っています。

 貧しい民衆の暮らしを安定させるための取り組みは、ド・ロ神父が1878年(明治12)出津に赴任した直後から始めています。まず、海難事故によって一家の働き手を失っていた女性たちに、織物や染色の技術を教えています。

 建物の設計と施工にも秀でた技術を持っていたド・ロ神父は、出津天主堂の建物を完成させるとともに、寡婦や母子家庭の女性のための授産場である出津救助院の建物を完成させるのです。出津天主堂や大野教会のド・ロ壁の考案でも有名です。

 ド・ロ神父は、出津救助院の設計・施工をし、建設費用の全額をド・ロ神父の私財で賄い、建設に用いられる木材については国有林の払い下げを受けて、ド・ロ神父が一本一本吟味して切り出した良質の木材で、出津救助院の建物は大変堅牢に建てられたと言います(現在、国指定重要文化財)。

 この救助院(長崎県の正式認可は1880年)は、ソーメン・パン・マカロニ・醤油の食品製造、染め物・紡績・織物・編物の織物工場の取り組みをしています。1885年(明治19)には、女性が働いている間、子どもたちの養育をする「出津保育所」を開設しています。

出津救助院の織物製品

 そのほかにも、原野を購入して開墾し、農民に農業指導をする傍ら、小麦、芋、綿、茶、トマトなどの栽培と土地改良・品種改良に当たる一方で、漁民に対しては漁法改良ための指導、道路改修の指導監督、出産の安全性を向上するための助産師養成に向けた取り組みまでしているのです。

 まさに、八面六臂の活躍と言っていいでしょう。とくに、私が驚くのは、ド・ロ神父が民衆とともに追求した事業の総体が、「明治期におけるカトリック慈善事業」という狭い枠組みにとても収まるものではない社会開発的な性格を持つことです。

 徳川幕府の時代に、潜伏キリシタンの人たちは厳しい暮らしを支え合うための組織を作っていました。潜伏キリシタンとしての営みが250年間も続いたからには、この支え合いの組織が支配権力に対する民衆の自律したしたたかさと粘り強さを持っていたことは間違いないと思います。

 ここに、近代合理主義にもとづく多彩な専門的技術をもったド・ロ神父が赴任し、キリシタンである貧しい民衆を守り抜くために、暮らしの安定と向上を図ろうとした。

 その手法は、民衆を保護の対象とするのではなく、民衆の、民衆による、民衆のための地域生活を築く自律した労働と暮らしの追求です。キリシタンへの国家による弾圧を体験しているだけに、国家権力に対する表立った抵抗をすることは回避しているように見えますが、支配権力に対する自律心がぶれることはありません。

 とくに、カトリック的なジェンダー観の範囲内に収まる制約はあるでしょうが、明治初期にあって女性のエンパワメントに取り組んでいたことは特筆に値するでしょう。

出津天主堂

 ド・ロ神父の始めた民衆と共にある取り組みは、開発戦略の柱に「人間中心」のアプローチを据えた、生産労働と暮らしの貧しさを克服しようとする取り組みでした。

 そして、これらの営みに参加するすべての人たちが、地域社会の一員として労働と生活に参画するプロセスの中で、自律した能力と福祉の向上を図る営みとなっていたのではありませんか。これらの取り組みの総体は、社会開発と人間の自立をめぐる今日的な示唆を持つ内容があると思います。

 障害者総合支援法や介護保険法の取り組みの枠内において、障害者や高齢者の自立した地域生活が実現できるとの幻想を抱いている人がもしいるとすれば、一度、出津救助院とド・ロ神父記念館をお訪ねになることをおすすめします。

 なお、このブログ記事は、ド・ロ神父記念館で確かめた資料の他、田代菊雄『日本カトリック社会事業史研究』(法律文化社、1989年)、佐藤快信他「ド・ロ神父の外海での活動の研究意義」(長崎ウエスレヤン大学地域総研紀要第7巻1号、73‐78頁、2009年)を参考にさせていただきました。