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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

日本型福祉のガラパゴス化


 障害のある人の虐待防止に係わる調査研究に私が着手した頃、北欧の障害福祉の研究を積み重ねてきた北九州市立大学教授の小賀久さんを通じて、コペンハーゲンのデンマーク教育福祉大学の教授に、北欧における障害者虐待防止の研究動向について質問したことがありました。

 回答はにべも無く「そのような研究はありません」と。家庭内虐待(子ども虐待、障害者虐待、配偶者に対する虐待、高齢者虐待)は以前に社会的な問題になった時期もあるが、すでに克服され、現在はごく一部の特異で例外的なケースに過ぎないと説明がありました。

 例外的なケースとは、結婚と離婚を頻々に繰りかえす中で複数の子どもたちができて、どの配偶者の時の子どもかの区別さえつかなくなっているような家族の中で、通常の社会的支援サービスの範囲では落ち着いた親密圏を形成することができず、不適切な養育・養護・介護から虐待の発生に至るものが典型だそうです。

 日本の虐待防止法に定める施設従事者等による虐待や使用者による虐待も、北欧ではあくまでも例外的事象に過ぎないとのことでした。

 北欧諸国では、学校における「教室のいじめ」が1970年代後半に克服され、家庭内部の虐待についても1980年代には基本的に克服されたそうです。

 したがって、例外的な事象である虐待ケースに対しては、集中的な社会的支援を行うことで虐待の拡大を抑え、必要に応じて、社会的養護(子どもならフォスターホーム、障害のある人ならグループホーム、高齢者ならグループホームかナーシングホーム等)につなぎます。

 北欧諸国は、ケア政策に家族依存はありませんし、子どもが成人すると親の扶養義務も基本的にありません。だから、虐待等による家族からの分離が日本のように「家族関係の解体」につながるリスクもまったくありません。

 家族依存型ケア政策を続けてきた日本では、家族内部の虐待の発生と対応の両面で、家族相互の「湿度の高い、ベタベタした依存」(人間関係と扶養関係)が問題となり、分離保護に躊躇する向きが支援者に生まれることもありますが、北欧は完全に個人の人権モデルです。

 これらのことを知ったとき、世界中のどの国にも日本と同じような虐待の実態がある訳ではない事実を思い知らされたのです。北欧の研究者から、「今さら、虐待の研究でもないでしょう」とあしらわれたようにさえ感じました。

 わが国の家族が子どもの養育や障害のある人のケアに応えることのできる状態ではなくなっているところに、「日本型福祉社会論」というイデオロギーから家族依存型の福祉政策を進めてきたケア政策は、完璧な歴史的敗北です。

 夥しい人数の虐待の犠牲者、介護殺人などの発生が止まないのは、必要な支援と社会資源の拡充整備を怠ってきたツケであることに疑問の余地はありません。

 介護保険や障害者総合支援法のサービスに係わる毎年の報酬改定を眺めていると、ひんしゅくを買う言い方でまことに申し訳ありませんが、「忍たま乱太郎・きり丸型手直し」だと思えてくるのです。その心は、「小銭の扱いにしか目が向いていない」。

 OECD主要先進国の中で、わが国の幸福度やGDPに占める教育・福祉等の予算の割合がビリケツに近い状況にあることがしばしば指摘されてきました。

 たとえば、2019年におけるOECD諸国の小中学校の1学級の生徒数は、EU22か国平均で小学校19.5人/中学校20.9人、OECD諸国平均で小学校21.1人/中学校23.3人、そして日本は小学校27.2人/中学校32.0人です(https://honkawa2.sakura.ne.jp/3870.html)。

 日本の1学級当たりの児童生徒数は、単式学級と複式学級を合わせた単純平均に過ぎません(単式学級/一つの学年だけで構成する学級、複式学級/学校の児童数が少なく、二学年以上で構成する10人以下の学級)。

 都市部の小中学校は基本的に単式学級です。例えば、東京都教育委員会の単式学級の学級編成基準は、小学校1~3年/35人、小学校4~6年/40人、中学校全学年/40人です(https://www.kyoiku.metro.tokyo.lg.jp/administration/pr/files/toukyuoto_no_kyouiku_r4/02_02_02.pdf)。

 この東京都の単式学級の基準と、先述したEU22か国平均の人数を比較すると、日本の学校の先生が多忙で残業だらけとなり、子どもたちの問題に十分向き合えない劣悪な条件の下で働いていることが一目瞭然となります。

 それでは、知的障害とASD(自閉スペクトラム症)を併せもつ人の二次障害の拡大は、OECD主要先進諸国と、「強度行動障害」という行政的裁量概念まで作って大騒ぎしている日本と同じような実態なのでしょうか。

 「強度行動障害」は日本だけの行政概念ですから、厳密な国際比較はできません。しかし、北欧の支援現場に入り込んで障害福祉領域の研究してきた小賀久さんによると、北欧にも二次障害の拡大した状態像の人はいるがごく一部だと言います。

 知的障害とASDを併せもつ人の二次障害の拡大が、家庭や施設従事者等による虐待発生につながりやすい問題であるという話は、北欧の研究者からも、現場の支援者からも聞いたことがないそうです。

 このようにみとくると、ケア政策を「時代錯誤な家族頼み」に振った社会福祉基礎構造改革以降の日本の福祉政策は、OECD主要先進国の中で、完全にガラパゴス化してきたのではないかという疑念に襲われるのです。

 日本型福祉のガラパゴス化を象徴するキーワードは、子ども個人の人権モデルから距離を置いた「こども家庭庁」という名称や、日本独自の行政概念である「強度行動障害」であるかもしれない。「強度行動障害」という行政上の括りは、二次障害の拡大が止まない現状に対して、適切な支援と社会資源の拡充整備を怠ってきたことの証左であると言えるからです。

 孤立した島国の環境の下で、1980年代の半ばに、シンガポールの首相から「ルック、イースト」(「福祉国家を止めた東の国の日本を見よ」という意味)と指摘された後、「保育所落ちた日本死ね」という異次元の子育て困難、夥しい子ども虐待、強度行動障害のある人への虐待の頻発、介護殺人等々が、引きも切らずに取り上げられるような国になってしまいました。

 1979年に「Japan as Number One」(社会学者エズラ・ヴォーゲルの著書)とアメリカから持ち上げられて迎えた1980年代、厚生省は日本の社会保障・社会福祉がヨーロッパ先進諸国に「キャッチアップした」と大見えを切っていた時代がありました。

 この時、日本はアジア諸国に福祉政策のモデルを提供する先進国としてのプライドさえ抱いていたと思います。「国際社会福祉」などと謳う取り組みを東南アジア諸国との間で展開し、それが雑誌「月刊福祉」辺りに盛んに取り上げられていた記憶があります。

 これらもすべてが「今や昔」。眉唾物の「キャッチアップ」や「国際社会福祉のモデル国」は、影も形もありません。

 日本メーカーの衰退要因の一つに、商品や技術のガラパゴス化が指摘されてきました。日本の自動車メーカーのハイブリット車は国内的な成功体験とはなっても、国際的にはガラパゴス化した車と評価されています。

 ガラパゴス化したハイブリット車にしがみついたことが、世界で急速に主流になりつつあるEV車に後れをとる要因になったとさえ指摘されています。

 デジタルカメラについても、よく似た光景が広がっています。大きく重いレンズ交換式のカメラは、一眼レフは無論、ミラーレス一眼を含めてニッチな市場に様変わりしました。一般ユーザーの撮影ツールからは遠ざかり、ガラパゴス化したと言ってもいいでしょう。

 これらの問題の発生は、20世紀に味わった成功体験をレガシーにしてしがみつき、急速に変化する事態に対応できてこなかったのではないかと言われています。

 わが国が経済成長を続けるために、いまだにオリンピックや万博にしがみつき、ついには軍需まで引っ張り出そうとしている現実は、わが国の明治以来の近代化の発展をレガシーにしてしがみついているからではないでしょうか。

 しかし、今こそ足元を正視したいのです。わが国の社会保障・社会福祉のガラパゴス化によって、民衆の暮らし向きは貧困・虐待・差別(女性、LGBTQ、障害のある人…)に加え、さまざまな生き辛さの苦衷にまみれるようになりました。

 障害者権利条約の批准が、世界でビリケツに近い140か国目だった事実や、昨年9月の国連障害者権利委員会の勧告内容を見ると、わが国の障害関係施策は「遅れている」というよりも、制度政策のガラパゴス化に由来する特殊日本的な歪みと屈折を、支援サービスと社会資源の各方面に形成してきたと捉えることが妥当です。

 つまり、わが国の障害関係施策は、このままの延長線上では発展させることの難しい袋小路にはまり込んでいるのです。

川越プリンスホテルのクリスマスツリー-川越Re-Artプロジェクト

 川越プリンスホテルの1階ロビーに、今、障害のある人のアート作品とサポーター市民の手を結んだクリスマスツリーが飾られています。川越Re-Art(リ・アート)プロジェクト(https://kawagoe-reart.com/about_us)は、障害のあるなしの枠組にとらわれることなく、「アート」を共通言語としてみんなが手を結び、社会のあり方を考えて行こうという取り組みです。
 今回のプロジェクトは、さをり織の織り師でASDのある溝井英貴さんの作品と市民クリエーターの「Re=手」を結んで出来上がったクリスマスツリーです。