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梶川義人の虐待相談の現場から

梶川 義人 (かじかわ よしと)

様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。

プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)

日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。

世のため人のため洗脳

宗教と虐待

 先日発生した安倍元首相の事件は、本当に衝撃的でした。私の周囲でもショックを受けた人は少なくありませんでしたが、犯人の犯行動機が、特定の宗教団体への恨みだと報じられ、思うところがあります。宗教がらみの虐待事例があることを思い出すからです。

 古くは、親が宗教的理由から、病院側の説得に応じず、子の輸血を頑なに拒否した結果、子どもが死亡したという事例があります。現在ならネグレクトと判断されるだろうと思いますが、当時は、虐待としての議論はされませんでした。

 一方で、輸血を拒否する理由が宗教的な信条だという特異性から、大きな議論が巻き起こり、その後、輸血拒否に対する医療ガイドラインが出来るようになりましたので、少し考えを整理しておくと良いかもしれません。

生活に支障が有るか無いか

 私は大雑把に、生活への支障の有り無しの程度で介入すべきかを判断するようにしています。たとえば、病気などに対して、医療とは異なる独自の考え方に基づいて対処している場合、生活に支障が有れば介入し、無ければ介入しない、といったイメージです。

 したがって、生活が破綻するほど宗教に献金している場合はむろん、専門家が「効果はない」としているのに無理やりリハビリを強制している場合なども、介入したほうが良いと判断します。この意味で、依存症と似た扱いだと言えるかもしれません。

 ところで、これらの問題は、日常生活の延長線上にあり、「気づいたらときにはことすでに遅し」になり易いものです。なのに「本人の意志の問題」だとして放っておかれ易くもあります。しかし、その結果が招く重大さを考えると、なかなか放置はできません。

 このブログでも述べたように、無自覚のうちに人を依存させてしまう、いわば洗脳してしまう人もいますし、無自覚のうちに、自ら洗脳された状態へとハマっていく人もいますからなおさらです。

反省も先に立たず

 ところで、洗脳された状態とは、何かに強く囚われ、そこからしかものが見られない、考えられない状態です。本当は、洗脳されかかった時、引き戻してくれる人が傍にいてくれると良いのですが、いることのほうが少なそうなので残念です。

 何とかしたいものですが、私は「反省」が鍵になると思います。人はよく「反省しなさい」と口にしますが、反省出来ないから問題を起こすのであり、反省出来るならもともと問題は起こさないので、「反省しなさい」の効果はかなり限定的です。

 むしろ重要なのは「反省出来るように」なることではないでしょうか。かつてスーパーバイザーから、「話してしまったことに苛まれ続ける人もいる。だから、それ以上話さなくても良いとストップをかけることもある」と教えられました。

 つまり「相手が話し易いような心配りは大切だが、そこにばかり囚われることなかれ」です。だとすれば、最も役立つ反省は「可能性は複数考える」ことかもしれません。そうすれば、怪しい団体の「世のため人のため洗脳」にも陥らずに済みそうです。

「信者を集めれば…」
「あっ『儲』かる!」

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