メニュー(閉じる)
閉じる

ここから本文です

梶川義人の虐待相談の現場から

梶川 義人 (かじかわ よしと)

様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。

プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)

日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。

あけましておめでとうございます

 年の初め、何か新機軸を打ち出したり斬新な記事を書いたりしたかったのですが、やはり背伸びをするものではありません。さっぱり良いアイデアが浮かびません。そこで、虐待事例の対応について改めて見直し、心機一転を図りたいと思います。

「だまし絵」事例に用心すれば大吉

 さて、見方により全く別のものが描かれているようにしか見えなくなる「だまし絵」というものがあります。ゴブレットにしか見えなくなったり、向き合う2人の横顔にしか見えなくなったりする絵などが有名です。

 実は、スーパービジョンに提出される事例にも同じような事例があります。虐待と非虐待を見誤っては一大事なのに、虐待だとみれば虐待事例にしかみえなくなり、非虐待だとみると非虐待事例としかみえなくなり、いささか厄介です。

 わけても「被虐待者を救いたい」という支援者の善意ゆえの見誤りは皮肉なものです。支援者はその善意ゆえに「勇み足」をして、過去に冤罪的に虐待者扱いされたトラウマを抱える養護者を、またしても虐待者扱いしかねないのですから。

初期値をゼロにセットすると中吉

 勇み足になると、たとえば、養護者の介入拒否や攻撃性を、虐待者扱いされたトラウマ由来ではなく「虐待者の示す特徴」だと見間違うのですが、それが暴走して大事件にまで発展した例があります。1980年代米国の「マクマーティン保育園事件」です。

 最終的に性的児童虐待を疑われた従事者たちは罪に問われませんでした。それなのに当初は、「子どもを救え!」という大人たちの善意が暴走し、「有罪ありき」の捜査や裁判、報道が行われ、国中が魔女狩りの様相を呈しました。

 善意には何とも恐ろしい側面があるものです。ですから、過去の支援経過を無検証のまま、既存の支援方針を踏襲するなど、何かに囚われているのに、それに無自覚のままで初期値を設定することは避けなければなりません。

 そこで、善意の勇み足や暴走が「虐待に関して有罪」を初期値としたことに端を発している教訓から、初期の情報収集では「初期値」をゼロにしてから始めるのをお勧めします。医療のような紹介システムが未整備のなかで行う「断らない相談」ではなおさらです。

虐待の判断を後に回して吉

 とは言うものの、初期の情報収集では、過去の支援経過を照会しようにも、当時の担当者から話を聞けないことがあります。また、大量の経過記録はあるのに、支援者たちがどのような戦略で臨んだのか、肝心の支援方針が不明なこともあります。

 私は、このように情報が限られている場合にこそ熱心に、当事者それぞれの立場からこれまでの経過を辿るようにしています。少なくとも、複眼的にも俯瞰的にもみることができて、「だまし絵」のような状況に気づき易いからです。

 実際、20年ほど前私は、研修のなかで「虐待の判断」をかなり初期の段階に位置づけて説明していて違和感を覚えたので、自験例に倣い、当事者それぞれの立場で経過を辿った後に「虐待の判断」を回したら、随分と座りが良くなりました。

「破魔矢に獅子舞、おみくじも!」
「沢山お年玉貰ったのネ!」