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梶川義人の虐待相談の現場から

梶川 義人 (かじかわ よしと)

様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。

プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)

日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。

恐れずに畏れよ

 毎年この時期になると皆よく、今年を一字で表しています。私もやってみたら「畏」を思い浮かべました。この字には、相手から深く感銘を受ける「敬服」の意味がありますが、日頃から「私たちは畏れることを忘れがちだ」と感じていたので浮かんだのでしょう。

 新型コロナについて言うなら、恐れ過ぎると「マスク警察」や「コロナ差別」の問題につながり、恐れなさ過ぎれば、感染症の拡大に一役も二役も買うことになります。こうなってしまうのは、過不足なく恐れるのは難しいのに恐れるからだ、と思うのです。

 私たち人間はとかく、恐れに打ち勝とうとか恐れを乗り越えようとしてきました。言うまでもなく、恐れるべき最大の相手は自然であり、「自然に打ち勝て、自然を乗り越えよ」でやってきました。おかげで今の繁栄はあるのでしょうが、恐れの過不足が仇となり、自分で自分の首を締める壮大な皮肉に直面してもいます。

 相手にしてきた自然のなかに、実は自分たちも含まれていたという皮肉です。そして、皮肉の総合カタログが、2015年の国連サミットで採択された、2016年から2030年までの「持続可能な開発目標(SDGs)」です。

 それにしても私たちは何故、相手に打ち勝つことや乗り越えることにこだわるのでしょうか。私は、私たちが自分たちのマニピュレート(操縦)できない相手を恐れ過ぎるからだと思います。そのため、やっきになって、操縦できそうな相手を増やそうとしてきたのです。

 何だか、虐待者やしくじる支援者と同じではないか、という気すらしてきます。自然に対して、期待から命令へ、命令から支配へと進み、自分たちを正当化するためなら屁理屈をこねることも辞さずに、突き進んできたというわけです。

 しかしこれでは、自分が全知全能の神になるまで同じことの繰り返しです。ここはひとつ「恐れずに畏れる」ようにして、壮大な皮肉から脱却したいものです。しかも、身近なところに良いお手本が沢山います。

 それは、農林水産業など自然にコミットする職業の人々です。彼らは自然から、恵みとして必要な量は頂きますが、自然を壊すようなことはしません。自然を壊すと自分の首を締めることになると身をもって知り、畏敬の念を抱いているからです。

 もっとも、農林水産業に携わっていない私たちに彼らを真似られるのか、という疑問も湧きます。無人島でわずかな道具だけを駆使して、ある程度の期間を生き抜くサバイバル活動を経験すれば、いい線を行けるかもしれませんが、現実的ではありません。

 そこで、DVや被災者が「サバイバー」と呼ばれることに注目し、彼らの持つ、どんな困難にも柔軟に対応して生き延びる力である「レジリエンス」に注目したいと思います。この力は、本質的にはサバイバル活動に必要な力と同じだからです。

 つまり、「相手と自分をより良く知ることに工夫を凝らす」のですが、私たちもこの姿勢でことに臨めば、上手く恐れずに畏れることができるかもしれません。

「畏れよと言っても…」
「やはり恐いですよねぇ…」