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『「平穏死」のすすめ』の石飛幸三先生が語る
特別養護老人ホームで「生」と「死」をみつめて

石飛 幸三(いしとび こうぞう)

終末期の胃ろうなどの行きすぎた延命治療の是非について問題提起し、ベストセラーとなった『「平穏死」のすすめ』の著者が、特別養護老人ホームでみつめてきた生と死、穏やかな看取りについて語ります。
2014年に当サイトで連載した『石飛幸三医師の特養で死ぬこと・看取ること』で、発信した「平穏死」を阻む要因は今、どうなったのか? 家族の情念や特養の配置医の問題は変わったのか? はからずもコロナによって「死」を身近に感じる意識がより高まっている今、すべての介護職、看護職に「看取り」の医師が伝えたいメッセージ!

プロフィール石飛 幸三(いしとび こうぞう)

特別養護老人ホーム・芦花ホーム常勤医。
1935年広島県生まれ。慶應義塾大学医学部卒業。1970年ドイツのフェルディナント・ザウアーブルッフ記念病院で血管外科医として勤務。帰国後、1972年東京都済生会中央病院勤務、1993年東京都済生会中央病院副院長を経て、2005年より現職。診療の傍ら、講演や執筆などを通して、老衰末期の看取りのあり方についての啓発に尽力している。
主な著書に『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか』(講談社)、『「平穏死」という選択』(幻冬舎ルネッサンス新書)などがある。


執筆者より前口上

はじめまして。石飛幸三です。私は世田谷区にある芦花ホームという特別養護老人ホームで常勤の配置医を勤めております。実は2度目のはじめまして、です。というのも、このけあサポでは2014年にも連載をさせていただきました(『石飛幸三医師の特養で死ぬこと・看取ること』)。あれから7年が過ぎ、今も変わらず特別養護老人ホームで穏やかな最後を迎えるお手伝いをしているわけですが、変わったこともあれば、変わっていないこともあります。そんなことも含めて、今、改めて伝えたいことを書き綴っていきたいと思いますので、どうぞ最後までお付き合いください。

第8回「平穏死を進めるために」

改めて平穏死のハードルを考える

 3回にわたって「平穏死の今」を見てきました。平穏死を進めるための扉は開かれたけれど、進めるために乗り越えるべきハードル(特養の配置医の問題、家族の情念の問題)は依然として高いまま、という状況にあります。
 私が書いた「平穏死のすすめ」を読んで、これこそ医師のあるべき姿だと意気に感じて、医療の世界から介護の世界に来てくれた若い医師もいました。そうした医師の存在に力づけられて、私も、何人か知り合いの医師に「引退して暇をしているのならこの世界にこないか」と声をかけてみましたが、介護の世界とはいえ、夜中に電話がかかってくることもある現場に戻ることにためらいがあったり、金銭的に見合わない※1といった理由で、残念ながら断られ続けています。
 先述した若い医師も、3年続けてくれましたが、情念に迷う家族の説得に悩んだ結果、経験を積むために医療の世界へ戻ってしまいました。この仕事は、熱意はあっても経験が不足している医師では難しい面がありますし、逆に経験豊富な医師には若い頃のような熱意が不足しているので、そもそも引き受けてすらもらえないのです。

根本的な問題

 ハードルが高くなってしまう根本の問題がどこにあるのでしょうか? 配置医の問題でいえば、医療保険と介護保険の2つの制度があり、分断されていることにあると思っています。例えば、特養の配置医を常勤で置けば、常勤医師配置加算がつきますが、施設内では、医療保険は使えず(介護保険のみ)、利用者に医療的な処置を施せば、すべて施設の持ち出しになってしまいます。一方、常勤ではなく医療機関から往診で来る配置医であれば、医療保険を使って医療処置を行えるなど、そこに医療保険(医療機関)側の既得権益が見え隠れしています。しかし、普段から利用者を見ていない医師では、その利用者に適している医療の在りかたを適切にコーディネートすることはできません。
 私はこのように制度がバラバラになっているところに根深い問題を感じています。もう一つ加えておきますと、常勤の配置医は同一建物内の従来型とユニット型の2つの施設を掛け持ちすることはできても、敷地外の2施設を兼務することはできません。この制度の縛りにも問題を感じていますので、次回は、これらを解決できる現状の最善策についてお話したいと思います。熱意がまだ失われていないベテラン医師をこの世界に呼び込むために、こうしたらどうだろうか、という提言になっています。

情念はどうすれば

 家族の情念について、私は前回の連載で、比叡山、天台宗の故・酒井雄哉師の言葉を引き合いに出して、情を捨てることを提言しました。
 酒井師曰く、情とは、つまり、自分のこだわり(我欲)であり、「もっと長く生きていてほしい」「このまま逝かせたらかわいそうだ」というのは、相手のことを思っての気持ちではなく、自分の気持ち(こだわり)を優先させているにすぎないというのです。そうであれば、情(自分のこだわり)など捨ててしまえ、と酒井師は言います。そうして、目に見えているものを素直に感じて、直感的に本能的に考えてみなさい、と説いています。
 流石に千日回峰行※2を2度やり遂げた方の言葉には深みがありますが、我々俗人には、そんな簡単なことではないですね。今回、改めて、このことについても考えてみたいと思っています。こだわりを捨て、直感的、本能的に考えるためにどうすればよいか、私なりの答えを出せればと思っています。

【編集部注】

※1 金銭的に見合わない

 世間的にみて決して低くない報酬なのですが、引退後にどこそこの顧問を勤めて、口利きだけでもらえる報酬に比べても低い水準のため、引き受けようという動機づけに至らない。
参考までに、入所者100人の施設で常勤医師配置加算は約900万円。

※2 千日回峰行

 約7年かけて崖路4万キロを歩く荒行。