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ルポ・いのちの糧となる「食事」

下平貴子(出版プロデューサー・ライター)

食べること、好きですか? 食いしん坊な私は、食べることが辛く、苦しい場合があるなんて考えたことがありませんでした。けれどそれは自分や身近な人が病気になったり、老い衰えたりしたとき、誰にも、ふいに起こり得ることでした。そこで「介護食」と「終末期の食事」にまつわる取り組みをルポすることにしました。

プロフィール下平貴子(出版プロデューサー・ライター)

出版社勤務を経て、1994年より公衆衛生並びに健康・美容分野の書籍、雑誌の企画編集を行うチームSAMOA主宰。構成した近著は「疲れない身体の作り方」(小笠原清基著)、「精神科医が教える『うつ』を自分で治す本」(宮島賢也著)、ほか。書籍外では、企業広報誌、ウェブサイト等に健康情報連載。

第142回 継続は衰退とする
KTSMの新フェーズ(後編)

はじめに

 小山珠美先生が主宰するNPO法人口から食べる幸せを守る会®(以下、KTSM)が発足した家族会についてご紹介する後編です。今回は、ある家族会メンバーを取材した内容をまとめます。

再び「食べたい」を叶えるために
家族が選んだ学びと実践

 神奈川県相模原市在住の内藤節子さん(72歳)は施設に入所しているご主人(86歳)の「食べたい」という気持ちを叶えるため、サポート情報を探していた際、新聞でKTSMの第6回全国大会(2018年7月開催)を知り、大会参加を経て家族会のメンバーとなりました。
 ご主人は脳梗塞の治療の後(2016年秋)、現在も入所している施設で生活をするようになり、胃ろうと併せて口からペースト食を食べる訓練を続けていました。ところが2018年4月、肺炎によって再入院したときに絶飲食となり、以後、病院で経口摂取は認められませんでした。
 ご主人に「口から食べたい」という希望があったため、内藤さんは家族、施設と相談して退院を選び、4月末に施設に戻りました。しかし戻っただけでは「食べたい」という希望は叶いません。
 後の小山珠美先生の診立てでは、鼻咽腔閉鎖不全及び喉頭閉鎖不全が見られ、深刻な嚥下機能低下に加え、重篤な低栄養が見られる状態です。

 退院当時を振り返って内藤さんは、「絶対に経口摂取は無理といい、今、退院するなら二度と診られないという病院から出たものの、食べられる状態にはなく、途方にくれました。しかし、あきらめられなかった。夫は果実のジャムをなめると喜びを表し、味覚は衰えていないようで、その食べたい気持ちを無視できなかった」と話します。

 そこで施設長の協力を得ながら嚥下訓練など「食べることを支える専門職」とつながるすべを探し続ける中でKTSMを知ることとなりました。そして全国大会の場で、小山先生に窮状を訴え、ご主人が再び食べるためにどのような体制づくりが必要か、また、自分ができることはないか教えを求めたのです。
 結果、家族会に加わると共に、書籍「口から食べる幸せをサポートする包括的スキル 第2版 KTバランスチャートの活用と支援」(医学書院刊)などで食事介助について学び、KTSMの第72回セミナー(KTバランスチャートの理解と基礎コース)に参加しました。
 一方、施設での主治医である訪問医(皮膚科)を説得し、小山先生の勤めるJA神奈川県厚生連伊勢原協同病院の地域医療連携室に紹介状を出してもらえるようはたらきかけ、小山先生から直接、ケアを受ける機会をつくるため奔走しました。
 経口摂取を再開することは、ご主人の強い希望であっても、リスクを伴うことでもあります。訪問医の指示により、家族全員のコンセンサスを得るご苦労も伴いました。
 一般的に、普通に食べられる人が「食べられない」ことのつらさを理解するには時間がかかります。口から食べられなくても、健康状態が落ち着いていたら、そのまま経管栄養を続けるほうが安全と考える人もいるでしょう。しかし、口から食べられない時間が長引けば、長引くほど、経口摂取を再開するハードルが上がってしまい、「食べたい」という希望は叶いづらくなってしまいます。
 内藤さんが一心にご主人の希望を見て、短期間にさまざまな調整を果たしたことに、筆者は元患者家族としても敬意を表します。

 内藤さんは9月末に小山先生を施設に招き、口から食べるために必要な環境づくり、食事介助の手ほどきを受けました。
 小山先生は患者(ご主人)をアセスメントしたKTバランスチャートを示し、住環境や施設のマンパワーなども鑑みて内藤さんを指導。今後の見通しを伝えました。
 施設長、その他の介護・看護スタッフ、主治医クリニックの相談員達も同席し、小山先生に学び、内藤さんのご主人への食支援を支える動きがあります。

 内藤さんは、
「小山先生に診立てていただき、夫がなぜ食べられないのか、安全に、おいしく食べていくにはどのようにステップアップしていくのが適切か、目処がつきました。これまでこのように理路整然とした説明は受けたことがありませんでした。
 以後は段階を踏んで、ベッド上で、正しい姿勢で、ヨーグルトやゼリー、とろ鮪のたたきをペースト粥と一緒に食べています。
 夫にとっては5カ月ぶりの、好物のまぐろ丼でした。
 唯一の娯楽であるテレビには、毎日、食の映像がひっきりなしに流れています。それを切なく眺めていた夫が、久しぶりの醤油味を食べたときは顔色が変わり、『うまい』『うまい』と繰り返しました。
 誤嚥の危険があるので、『喋ってはダメ! しっかりごっくんして』と注意しても、つい『うまい』と声が出る。ハラハラしながら内心、再び口から食べる訓練を始められて、本当によかったと私の心も躍りました。
 口腔ケアやマッサージといった食べるための口づくりも、段階的に食べていく目処が立って、以前に増して注意深く行っていますし、施設も協力してくれています。
 朝、着替えのときに義歯を装着してもらうようになり、もう『食べられない人』と扱われません。わずか1週間で頬を膨らませて“ぴろぴろ(吹き戻し)”も吹けるようになりました。何もしなかったら、この力は戻ってこなかったでしょう。
 小山先生が『やるべきことをやる』『食べる人の身になって、おいしいもの、食べたいものを食べてもらう』とおっしゃった。夫の変化を見ていて、そうした言葉の一つひとつ、その意味を感じています。
 好物を食べるためにがんばろうと声がけすると、夫も意欲を見せてくれます」
と喜びを吐露します。

 一方、内藤さんは小山先生を前にして食事介助をして(大緊張もして)、不適切な点をいくつか厳しく指摘されたり、はやる気持ちで次のステップに進むことを相談し、なぜ時期尚早か諭されたりもした、とのこと。
 その度、机上で学んだことを実践する大変さを身にしみていると話します。
 「小山先生はいのちをかけた真剣勝負で夫を見てくれているから厳しい。セミナーでも食事介助の実践は『原理原則』を違えてはならないと繰り返されました。引き続き、勉強します。
 自分があきらめなければ、夫に好物のチャーハンやラーメンを食べさせてあげられる日がくる。希望がもて、家族会の世話人さんや仲間も応援してくれるのでがんばりたい」とも。

 とはいえ今後、車椅子で食事をとる、食形態を上げるなど、次のステップに進むとき、自分だけで食事のケアをするのはまだ怖いといい、継続的に専門家の支援を受ける体制を整えることを思案中で、そのように変化していく課題や不安を投げかけることができる家族会があって心強いと話しました。

 食べたいと希望する家族がいて、最も身近な介護者が希望を叶えるために立ち上がった一例です。
 内藤さんはKTSMの全国大会にエントリーするため、施設長に手伝ってもらいながらインターネット操作を覚えたそう。そして次々、“初めて”のことにチャレンジしてきたのです。
 その情熱は、入所者の生活を改善したいという意欲をもつ施設関係者など周りをも巻き込んでいきました。施設に入所している人すべてに応用可能な食事の環境づくり、食事介助の知恵が伝わったことは、多くの人の利益になることでしょう。
 内藤さんも食事介助の学びを深め、「いずれはほかの方にも役立てたい」と意欲をもっています。

 バタフライ効果(butterfly effect:ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす)を思います。ましてや遠くの話ではありません。
 筆者は風を感じています。そして、この記事を読んでくださった方にも、風が届くことを信じています。