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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


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花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第44回 保育士から介護職へ。 
小規模多機能は、その人らしく生きられる最高の手段。
若年性認知症の人を支えるために働きたい。

来島みのりさん(49歳)
マザアス日野 小規模多機能ホーム さかえまち(東京都・日野市)
管理者

取材:原口美香

これからは高齢者だ

 生まれは北海道です。学校は幼児教育学科で、幼稚園教諭と保育士の資格を取ったんですね。本当は、児童養護施設で働きたかったんですけど、思うような就職先がなかったんです。それで、卒業後は障がい児の施設で保育士として働きながら、1年経ったら、東京に出て就職先を探そうと思っていました。都会に出ればいいことがあるような気がしていたんです。その施設に、「これからは高齢化社会だから、仕事するなら高齢者だ」って言っていた先輩がいて、漠然と「これからは高齢者なんだ」と思っていました。

 八王子に兄がいたので、兄を頼って上京して、すぐに仕事を探しました。養護施設も探したんですが、思うようにはいかなくて、それなら「老人ホーム」に就職しようと決めました。介護業界にはあまり興味がなかったのですが、「これからは高齢者だ」という先輩の言葉も大きかったですね。

 最初に勤めたのは、いわゆる「特養」といわれている特別養護老人ホームです。職安に行ったら募集していたので、まず行ってみようって。当時は養護老人ホームと、特別養護老人ホームの違いも、よくわからなかったですね。若かったから、深く考えてなくて。それが1989(平成元)年くらいで、22、3歳のころでした。2年間働いたんですけど、施設内でゴタゴタがあって辞めてしまいました。

 次も「特養」に勤めたのですが、そこは110床を50人と60人にフロアを分けて、1フロアを夜勤2人でみるという。当時はそういう世界だったので、一晩中走り回っているような感じでした。きつかったですね。でも、介護保険が始まる前だったので、一方では、結構のんびりしていて、利用者の方と一泊旅行に出かけたり、買い物に行ったりができていた時代だったんですね。忙しかったけど、そういうことがやれていたと思います。いい先輩にも出会えました。

 そこで、介護福祉士と、ケアマネジャーの資格をとりました。ケアマネジャーは、資格自体がまだできて2年目でした。

好きなことをやらせてあげる

 2003(平成15)年にユニットケアが制度化されて、その研修会がさまざまな場所で行われるようになり、私も参加したんですね。そのときに「マザアス日野」の施設長がいたんです。たまたまグループワークをしているときに知り合って、いろいろ話をしていたら、「うちの施設に来ないか?」と誘ってもらったんです。「ケアマネの資格を持っている」と言ったら、「好きなこと、なんでもやらせてあげるよ」って。そもそも、ケアマネの資格を持っている人が少ない時代だったので。私もちょうど転職しようと思っていたんです。惰性で働いている自分が嫌だな、って思っていたのですね。もちろん時間内は一生懸命やっているのですけど、やる気が起きてこないというか。新しいところで、一からやり直したいという気持ちもあって、「好きなことをやらせてあげる」という言葉にも惹かれました。それで11年勤めた特養を辞めて、今の法人に移りました。

 最初はマザアスの特養に、現場職員として入りました。当時ケアマネが一人で100名分のプランを作成していました。120床あるんですけど、一人では十分なプランを立てることが難しく、2年目には私にも作成するよう指示があり、現場兼任のケアマネになりました。ただ、現場に人がいないので、現場に出た後や、休みの日を使ってケアプランの更新をしたんです。無我夢中でした。3年目からは専任ケアマネになれました。「好きなことやっていいよ」っていうのには嘘がなくて、施設内のいろいろな改革や提案はほぼ100%通りましたね。

小規模多機能って、すごくおもしろいんですよ

 小規模多機能という制度は、2006(平成18)年にできたのです。「うちの法人で小規模多機能を立ち上げるので異動してもらえないか?」と言われたのが2008 (平成20)年でした。ノウハウもないし、周りにもまだなかったけど、赤字は出したくなかったので、スタッフも少ない人数でスタートして、最初はずいぶん無理をしました。利用者さんからくるニーズには、いろいろなものがあるわけです。それに応えるには、スタッフの人数が少なすぎるんです。だけど、問い合わせも滅多にこなかったので、ここは無理をしてでもやるべきだと思って、依頼を全部引き受けていました。それで1年半後には、登録定員の25人を満たすことができました。

 2年半くらいやった後、小規模多機能の2か所目を立ち上げることになり、ここに異動しました。ノウハウがわかっているスタッフを連れての異動だったので、1か所目よりは楽で、3か月待たずして定員がいっぱいになりました。

 小規模多機能って、すごくおもしろいんですよ。特養で60名を夜勤時2人でやっていた頃は、利用者さんの「すみません」っていう言葉にすら応えられなかった。小規模はやろうと思ったら、いくらでも利用者ニーズに応えられる。「今、この人のここの部分を支援すると、施設入所させずに在宅で生活が続けられるんだ」っていうのが見えるんです。すごく手応えがありますね。

ママさんバレーを続ける支援もできる

 若年性認知症の女性利用者がいて、彼女はママさんバレーをやっていたんですね。お姉さんが付き添いをしてくれていたのですけど、あるとき、「もう妹は、着替えもできなくなったので、やめるわ」っておっしゃって。唯一、楽しみにしていたママさんバレーが、まだ54や55でできないなんで、あまりに忍びないと思って、「私たちで付き添いをしますよ」って決めて、小規模多機能でママさんバレーが続けられるようにしたんです。そのチームの方々も、その人が認知症だってわかっていて、みんなが支えてくれている。その人が触ったボールは、何回かかってもつないでくれていたんです。

 小規模多機能って、単なる介護じゃないんですよ。その人の生きがいや、それまでの人間関係や、暮らしで大事にしているものを続けられる支援もできちゃうんです。その人らしく生きられる。これはもう最高ですよ。

 1か所目の小規模のときに、49歳で若年性認知症になった男性がいて、その奥様が「日野市で若年性認知症の会を立ち上げたいんだ」って話していたんですね。当時は新宿の大きな会に通っていたんですけど、認知症が進んでくると電車で出かけることができなくなる。でも地元だったら、症状が進んでも参加することができる、って。会は、2組いれば始められるというので、情報を集めていたんですけど、全く情報が集まらなかったんです。