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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第71回 看護師、化粧品関係の仕事などを経て介護事業開設へ 
介護は私のライフワーク
日々の暮らしの中で、最期の時を支えたい

安西 順子さん(58歳)
宅老所・ディサービス・訪問看護ステーション ひぐらしのいえ 代表
(千葉・松戸)

取材・文:原口美香

悔いのない最期を迎えてもらうことが、ひぐらしの任務

 ある利用者さんを看取った時の話なんですが、その方は家族関係が悪くて、何十年とご主人と別居していました。あともう一週間っていう時に、ご主人に伝えるかどうかって悩んでいたんですね。「ずっと会ってもないんだけど」と仰るので「伝えるだけ伝えてみたらどうですか? 来る来ないは向こうの判断だから」って話したら、ご主人がすぐ来てくれたんですよ。家族みんなで、お孫さんも連れて来てくれて。そのお孫さんは、看護学校に在学中で、ちょうど看取りを学んでいたんです。それで、お孫さんに一緒にケアをしてもらいながら、看取ったんですね。ご家族もすごく安心できて、「よかったね」って言ってあげられた。お孫さんの実体験もそうだけど、今まで疎遠だった家族の距離が、そこでギュッと縮んだんです。とても意義のある看取りだったと思って。わだかまりを持ちながら亡くなったり、別れるのって嫌ですよね。一人でも悔いのない最期を迎えてほしいので、そのような対応がひぐらしの任務なのかなとも思いますね。

曾祖母を看取った記憶

 子どもの頃は病弱で、入院などもしていて、小学校1年のスタートが遅れたんです。でも3年生の時の担任の先生が、私のことを評価をしてくれたんですね。それから少しずつ自分に自信を持てるようになりました。

 5年生の時、私の曾祖母が自宅で亡くなりました。出身は岩手なんですけれど、古い家の中で、六畳間に親戚一同、近所の人がみんな集まって、夜中に看取ったんです。本当に最期まで家で暮らして、最期の一呼吸まで看取る。人の死というものをそこで初めて味わったんです。その体験が、ずっと根付いていたんですね、今思えば。

 その後、ナースになる道を選んで、大学病院に就職しました。新設の病院で、外科系の病棟に配属されて、一日に5、6人の手術患者がいる、なんていうのが日常でした。急患も頻繁で、交通事故で脳挫傷の方とか、その日のうちに亡くなる訳です。何しろ重症度の高い病棟で、深夜勤で4人看取ったこともありました。エンゼルケアをして、専用の地下に通じるエレベーターに乗せて、廊下をそっと行くんですね。そういうのを1日で4回もやっていると、「私、何やっているんだろ」というような気持ちになってきて。それで、2年で燃え尽きて辞めちゃったんです。でもその2年はナースとしての土台を築いてくれた。いろんな経験を積ませてもらったかなって。

 それで、違う仕事がしたくなって、今度は化粧品関係の仕事に就きました。3年くらいして、上の子が生まれたので辞めて。しばらくしているうちに、何かこう沸々と「何かやりたいな」と思って。化粧品の会社を出すっていう話もあったのですが、「何か違うな」と思っていて。その頃、福岡の宅老所の「よりあい」の記事を見たんです。古い家で最期までお年寄りをみていく、って。それで「もしかしたら、これだったらできるのかな」って。曾祖母を看取った時の記憶がやっぱりありました。普通の人の最期って、とっても温かいものがあったので。ナースの時の2年の間で感じた空しさみたいなものがあるじゃないですか。一人一人に寄り添う時間もなかったし。でも宅老所の話を聞いて、人は、自然に枯れるように死んでいくんだ、って分かってきた。それで、松戸市の日暮に一軒家を借りて、平成16年の2月、45歳の時に「ひぐらしのいえ」を始めました。

日常がお祭りみたいな楽しい場所

 始めて私は2年くらい、お給料なしでね。取れなかったんですよ。スタッフの給料だけで、火の車どころじゃないです、借金で。それから今の場所に移転して、デイサービスを利用してくれている方のご家族で、「泊まれる施設があったら、おばあちゃんを預けたい」と言ってくれる方が4人いて、さらに増築したんです。その頃、重度の介護を必要とする利用者の方が増えて、付いていけなくなったスタッフが4人くらい、立て続けに入れ替わったことがありました。その時は、本当に必死でしたね。利用者さんがいたのもそうだし、新しく作って間もなかったし、借金もいっぱいあったし。絶対に潰すわけにはいかないと、無我夢中でやっていましたね。3か月くらい、家に帰れませんでした。

 それから10年、スタッフの入れ替わりは多少ありましたけど、核となる人間はずっといてくれている。今のスタッフはすごく長いです。もう10年選手。やっぱり、その人たちとここを作り上げてきたっていう思いがあります。私だけのものではなくて、やっぱり彼女たちのものでもあるし、介護職の中心は彼女たちですしね。せっかく志を持って来てくれた人たちだから、大事にしたいと思います。モチベーションを落とすようなことはしたくないし。ここでは、決まった日課はなくて、その時のお天気とメンバーの雰囲気で決めています。特別なことじゃなくて、普段、家でやっているようなこと。だけど、みんな集まって毎日がお祭りみたいな、楽しい雰囲気ね。そういうふうにしたかった。そういう場所に私が身をおいておきたかった、っていうのかな。

これからは看取りの時代

 デイサービスに通ってくれて、長い間関係を積み重ねてきた方の看取りもありますけど、今は、ガンの末期など、そういう依頼がものすごく増えています。短い方だと1週間から20日間、という方もいました。医療と看護だけでは支えることにならない。介護と看護が両輪じゃないと、その人を最期まで支えるのは大変です。私はだから、いい立ち位置にいると思うんです。介護職と医療職の橋渡しみたいなこともできると思いますし。今、看取りの需要がこれだけあるということは、これから増々増えていきます。

 お風呂も本人が「絶対嫌」って言わない限り、入ってもらいます。具合が悪くても、気分が悪くなければ、サッと入ってもらう。だって、今日が最後のお風呂になるかもしれないじゃないですか。そう思うと本当に一つ一つ、一日一日がとても大事で、今日の、今の食事が最後かと思うと、おいしいものを食べてもらいたいし。今日のこの瞬間をね、大切に。二度と会えないかもしれない、明日はいないかも知れないと思うと本当に。

 一人でもひぐらしのいえが「いい」と思ってくれる人がいる限り、ずっと続けていきたいと思いますね。


ひぐらしのいえ外観

食事はすべて手作り。利用者の方とスタッフ全員でとる。

天気の良い日はテラスで。


【久田恵の視点】
 自らが、必死で立ち上げた場のことを、安西さんは言います。「こういう場所に私が身を置いておきたかった」と。そこを自分がいたい場所にする、そこで自分がそうしてもらいたいことをやる、そして、自分が最後にされたいように看取る、携わっている人たちが、そんなふうなまっすぐな「志」を持ってやれる仕事は、この利益追求型の時代には、そう多くはありません。介護の世界に、引き寄せられてくる人たちは、そういう稀有な人たちなのだと思います。